壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

完全忘恩

 俺は誰かに恩があるというのだろうか。それは親などではなく、仕事などで接触する他人どもに対してだ。恩があるとしたら俺はその誰かから与えられた恩を返さなければならないのだろうか。俺にはそんなそんな覚えはまったくなく、その手の理屈を理解することも出来ない。所詮他人からやられたことなど、良いことだろうが悪いことだろうが、可能な限り気に留めないようにしている。そのため俺は、やれ貸しだの借りだのと言われてもただ、すっとぼけるしかないのだ。

 

恩知らず恥知らず我関せず

 自分が恩知らずだと思われているのではないか、と懸念に駆られる。と言うのも、前に働いていた会社の連中にとって、俺の存在はともすればそのようなものではいか、と今更になってふと思うことがあるのだ。別にだからどうと言うこともないのだが、恩という概念は俺にとって、この歳になっても未だに良く分からない代物だ。俺がそれを踏まえずに生きているとしたら、それはまぁ無理からぬ話ではある。

 別に前職で関わった連中に格別の引き立てをしてもらったということではない。その者どもの俺に対する態度が、何と言うか「恩を売ってやった奴」に対するそれなのだ。しかも、あろうことか会社がなくなった後においても、俺に馴れ馴れしく、偉そうに接触を試みてくる。俺は完全に無視し、関わりを絶っているのだが、そのような対処が例の御仁たちからしてみれば、即ち忘恩にあたるのでは、と時折り思うのだ。

 その者どもの内でも、最も悪辣な人間からの電話に、俺は一度うかつにも出てしまったことがある。その男は、俺が遠ざかろうとしていることを電話口で恫喝しながら咎めた。強い言葉と暴力を背景にした仄めかしにより、自分が電話をかけた時には絶対に応答するようにとその男は俺に、図々しくも命令してきた。言うまでもないことだが、一体何様なのだろうか。

 その一群の中で、最も目上だった者も会社がなくなって1年後、唐突にメールを送り付けてきた。俺はこれを無視し、それっきり関係は立ち消えとなったが、彼にとって俺はやはり恩知らずなのだろうかと、俺は人知れず考えることがある。別にだから恥ずかしいだとか、断ち切った人間関係に未練があるということでは全くない。逆に、生涯のある時期において、その連中と関わりをもったのは俺にとって人生の汚点であり、それらと縁を切れて生成しているくらいだということは付け加えておく。

 ただ、俺は恩と言うか、いわゆる人間関係における「貸し借り」というものに、全く納得ができないのだ。何かをしてやったから有り難くと思え、と俺は面と向かって言われたことさえある。そんなマンガに出てくる悪人のようなセリフを放つような人間を俺は慕わなければならないのか。俺は当時そんなふうに考えて途方もない気持ちになったのを思い出す。その発言をした男を、俺は殺したいほど憎んでいたのに。

 あれだけしてやったのに、と俺は色々な人間から思われているのかもしれない。恩知らずの恥知らずだと、俺は多くの人間の怒りと顰蹙を買っているのかもしれない。しかし、そもそも俺に対して何らかの施しや気配りをした者たちは、有形にせよ無形にせよ、俺の手によって何らかの返礼がされると思って行為に及んだのだろうか。だとしたら、俺にとってそれは本当に信じがたいことだ。

 俺が何者かの助けを乞い願い、それを受けて誰かがそれを与えたというなら話は別だ。その場合なら俺は、何かをしてもらったその相手に恩がある。そしてそれを何らかの形で「お返し」しなければならない、当然だ。しかし、そのような関係性が現実の社会生活で生じうるだろうか。ましてや、生活の手段として行っている仕事をする上での人付き合いにおいて、恩がある存在が現れるのは、極めて稀なはずだ。少なくとも俺はそんな誰かとは未だに巡り会ったことはない。

人間関係の貸借対照表

 「 小人の交わりは甘きこと醴の如し」と、余人に声を大にして俺は言いたい。先ほど述べたように、俺が本当に誰かの助けを求め、膝づいてそれを願ったとして、誰かが手を差し伸べたというなら、それは本当の恩だと言えるだろう。そしてこれも前述したが、そんなことは生きていてソウソウありはしない。むしろ、それが頻繁にあるとしたら、そんな生活は根本的に問題があると言わざるを得ないだろう。

 食いたくもない飯を食わされたり、月々の給料を契約通り支払ったりと、せいぜいそんな程度で恩人を気取られても困る。ありがた迷惑、そもそも有り難くもなく頼んでもいないのだからそれは、純然たる迷惑だと断じてもいいくらいだ。そうは言っても、出された飯は食い、取り決め通り賃金は貰うのだが。しかし、俺は飯を食わせてくれと物乞いをしたのではなく、働いた分だけ金をもらうのは当然だ。だからそれらは恩でも無ければ「貸し」でもないはず。

 それで相手に「貸し」を作ったと思える人間の精神構造が、冗談でも何でもなく本気で理解に苦しむ。そして俺は自動的に借りがある人間ということにされ、「借りた」まま何もせずに居ると、非礼だの無礼だのと言い立てる。全くもってそれは始末に負えない。俺は誰かに借りが生まれたとしても、それが分からないほど鈍くはない。単に受けた事柄が借りなるものに該当しないと見なしているだけだ。

 たかだか牛丼屋で一食おごったくらいで、一生かけても返しきれない程の大恩があると思うよう無理強いした輩までいた。それは俺が昔に努めていた会社の先輩社員であったが、その飯も俺が恵んでくれと頼んだわけではない。悪しざまな書き方になるが、それは向こうが勝手にしただけだ。それを有り難く思えとは、一体何事なのだろう。せいぜい「ども」で済むような話を無限に膨らませて、俺の時間や労力を奪う口実に利用しようという魂胆が見え見えではないか。

 実際、その男は俺をそのように使い、利用した。公私の別無く俺に正当な対価を支払うこと無く、彼は俺を虐使したのだ。特筆すべきなのはそれがまるで、俺がソイツに恩返しをしているかのような「体(てい)」で行われたということだ。俺が例の男を心の底から崇敬し、自ら進んで献身しているという、「ことにしようと」したのだ、奴は。俺とそれとの関係は、今思い出しても虫唾が走るような間柄であった。

 言うまでもなくそれは、理不尽極まりない所業に他ならなかった。単に主従関係に基づいた労働力の搾取としてそれが行われたなら、そんなものに甘んじている俺が悪く、また至らないだけだ。その関係性はそんなものではない。それは俺が自分の意志で自主的に、例の者に尽くしているという前提によって成り立っていたのだ。これは不当なだけでなく、欺瞞に満ちたズルいやり口と言えるだろう。

 

 俺はソイツを敬い慕わなければならなかった。そうでない気持ちを持つことは許されなく、それを顔や態度に僅かでも出すと、彼は烈火の如く怒った。彼の頭の中では単なる強制によらない美しい忠義や献身の物語が出来上がっていたのだろう。自分が主人で、この俺が従者か召使か、奴隷か家畜か道具か知らんが、とにかくそんな構図の。それは会社の中における関係でしかないのに。

 そんな付き合いが延々といつまでも続いていくなど、俺にとっては死ぬより辛い。他人に使役されること自体が嫌だということはもちろんある。しかしそれよりも、俺にとって耐え難いのは、その関係性を飽くまで俺自身の意志や願望に基づいて俺が自主的に形作っているという「体」を装わなかればならなかったという、ただその一点に尽きるのであった。

 俺にはそんな殊勝な気持ちなどないし、仮にあったとしてもそれは会社で自分を理不尽に酷使する上役あるいは先輩などといった存在に対するものでは断じてない。もし俺がそういう手合いに親愛の情を抱き、心から尊敬し、心服随従の意志を胸に抱き、それを行動によって、命ある限り死ぬまで示し続けるのだとしたら、俺は一体どんな存在なのだろうか。

 それは単なる被雇用者だの格下目下、下っ端といったような類いの言葉では言い表わせない惨めで無様な何かだろう。生活のために他人に頭を下げ、言いなりになるのは別段おかしくも恥ずかしくもない。俺が問題にしているのは肉体的な行動として表し示さなければならない何かではなく、精神的なものである。単に自分を金で雇って理不尽にこき使っているだけの相手を、慕うだなんて!

 会社などの職場において、俺にマウントを取りたがり上になろうとした者は、俺を酷使するだけでは決して満足しなかった。連中は俺に尊敬されたがったのだ。そして俺はそれが最もいけ好かなく、理解に苦しみ、またおぞましく不可解であった。赤の他人に見下したり蔑んだりして憂さ晴らしをしたり、不当に使役することで労働力などを搾取して得をしたいというのはまだ理解出るが。

 その標的に敬われたいという気持ちだけは恐らく、俺には死ぬまで分からないだろう。下に見ている相手から嫌われたくなく、好かれたく、慕われたいという感情は。それはまさしく複雑怪奇というか、通常の感覚から離れた欲望だと思う。そしてそんな恐るべき人物が、決してこの国には少数ではないということが、俺をますます戦慄させるのである。

 一体全体、どうして使うだけでは満足できないのだろうか。他人を利用して利を得たいという欲については俺自身も持っている。しかしそれだけでは飽き足らず、被虐の対象から尊敬の念まで得たい、いや得られて当然だと考えるのは、異常というより他はない。仮にもし、俺が誰かを使う側であったなら、使われている相手に対して俺に感謝しろだの公私の別なく親密にしろだのとは、天地がひっくり返っても絶対に要求しないと言い切れる。

 言うなれば、このような人間にとって、たとえ会社や仕事という前提に基づいたものであろうがなかろうが、あらゆる人間関係は金の貸し借りと同じなのだ。貸しを作ったのだから、相手がその借りを返すのは当然だと。それが得られないとしたら、それこそ不当であり、不義であり、自分は「とりっぱぐれた」被害者なのだと。頭の中で恩の貸借対照表を、自分の基準で勝手につけて、貸し借りの釣り合いが取れないと憤っているに過ぎない。

ご破算で、願いましては

 金の貸し借りとは違い、恩の貸し借りというのは極めて曖昧なものだ。1与えて1返すだけの関係なら、俺だってここまで文句を並べ立てはしない。この記事で取り上げているようなタイプの者どもは大抵、1与えて10でも100でも、あるいはそれよりもっと相手から(つまり俺から)ぶん取ろうという算段でいるのだ。しかもそれを正当な取引ということにして。

 そういう要求をするような人種というのは結局、自分が悪人だと絶対に思いたくないのだろう。他人を理不尽に扱い、蔑み嘲り、虐げるといった悪行に及びながらも。そのように考えれば、この手の御仁の胸中というのが俺にも何となく分かるようなきがする。連中にとって重要なのは同輩以下のナニガシかから嫌われたり憎まれたりすることがないセルフイメージの維持にあるのだ。

 無論、自分のために他人を利用することは諦めずにだ。誰かが誰かに何かをしてやったりそれを返したりすることが、金の貸し借りと同じなら、自分がくれてやった分を相手に要求したとしても、それは飽くまで正当ということになる。前述のとおり、金の貸し借り以上に不透明なのが恩に関するやり取りだ。ギブアンドテイクという言葉があるが、それは机上の空論でしかない。

 金は明確な尺度足りうるが、人間関係の貸し借りという点において、正当かつ構成な「取引」が成り立つのは稀だろう。先ほど挙げた言葉で言うなら、ギブとテイクの釣り合いが全く取れないことの方が多かろう。牛丼ひとつ奢ったというだけで、毎日タダ働きさせ、感謝や敬愛の情を要求する者もいたことだし。例の男に限らず、いま働かされている職場でもそんなことは日常茶飯事と言っていい。

 会社や仕事における人間関係が、単に使い使われるだけの代物にすぎないとしたら、労働というのはどれだけ気楽だろうか。恩だの貸しだのと宣い、理不尽な仕打ちを当然のように強いてくる人間と付き合わずに済むなら。ところが実社会においてはそうも言っていられない。そういう精神構造の人間は世間において溢れかえり、何かあるごとに自分より下だと思った標的にこれまで述べたような振る舞いや言動をしてきやがる。

 そんな連中に恩知らずだの恥知らずだのと言われたところで、別段どうということもないだろう。忘恩の徒で結構ではないか。金の帳簿とはわけが違い、別に貸方と借方の釣り合いが取れようが取れまいがそれで何がどうなるわけでもない。忘恩だの何だのと責め立てる連中は、都合よく利用できる格下が欲しいというただそれだけの下らない欲の持ち主でしかないのだから。そんな者どもの気持ちなど、無視しても全く問題なく、むしろ無下にして踏みにじったって許されるはずだ。