壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

敬天不愛人

 人間は人間よりも大きな何かを拠り所にしなければならない。と言うよりむしろ、人間が人間であることだけにだけ目を向け、それに執着する時、そこにどんな自由や幸福があるだろうか。人より大なるもの、世俗を超えた域にあるナニモノかを畏れ敬う心がなければ、人の生に救いなどないのだと俺は断言する。人として、という前提から離れたところには、神だけが在る。そして重く見るべきなのは、ただそれだけだ。

 

思いきれば

 俺はこの世の何も好きではなく、また誰ひとりとして愛してなどいなかった。それをアヤフヤなままにしてこれまで生きてきた。しかし、それを己の内において明らかにするべきだと今日、気がついた。誰かに嫌われたり見下されたりする度に、俺は胸中をかき回され、いつも穏やかでなかった。そのような自らの心の動きを見据えながら俺は暮らしているのだが突然、それに対して解せなく思ったのだ。

 果たして俺は余人における何者かに悪く思われたくないのだろうか、と。更に言えば、俺には嫌われたくなく且つ良く思われたいと思えるような誰かが存在しているだろうかとも、自問した。それの答えはすぐに出た。そんな奴など存在しない。好かれたい相手が地球上にただ一人も居ないにも関わらず、なぜ俺は誰かに悪く思われたり下に見られたりするのを嫌だと感じるのだろうか。

 どうせ誰も好きでないのだから、誰にどう思われようともどこ吹く風で知ったことではないと見得を切るべきなのだ、俺は。別の書き方をするなら俺は、此の世のどんな人間も愛してなどいないとも言える。生きて動いている有象無象などは、俺にとって塵芥に等しい。実際は俺のほうが世間においてゴミクズのように扱われているのだが。そんなことさえも、最早どうでもいいと従容とすべきだ。

 俺は何者も愛してなどいない。それならば、他人からどう思われたとしても気にする必要など全く無いはずだ。愛していないから、俺はこの世にいるあらゆる者どもを思い切ることができるし、またしなければならない。俺は対人関係について、どんな瞬間や局面において悩まされてきた。そしてそれから解かれることを常に望んできた。しかし前述の通り、それはそもそも抱く必要のない憂いだった。

 此の世の誰も、俺は好きではない。だから俺は誰の気持ちも慮らず、どんな人間の意を汲まない。俺は誰からも愛されておらず、また誰ひとりとして愛していない。それを明確に意識することを、俺はなぜかこれまでずっと避けていたような感がある。愛されも愛せもしないのは、人として間違っており正しくないと、何となく思っていたからだ。そう思い込んでいたと言っても良いかもしれない。

 愛と無縁であることは恥でもなければ誤りでもない。世間においてどのような言説や通年が流布されていたとしても。どんな人間がどんな理屈を持ってそれを説いたとしても、俺には全く関係がない。俺は自身に限らず、愛なるものと人間という種は元来、縁遠いと確信を持っている。人間が人間を愛したり愛されたりするという虚妄と、俺は金輪際もう付き合うことはない。

 人間から愛されず、また愛せなかったとしても、俺には天を敬うだけで十分だ。人間というものに、俺はホトホト愛想が尽きた。生まれてこの方、俺は生きて動いているものなど全て嫌いだった。元々嫌いだったが、延々と此の世で齢を重ね様々な者どもと大なり小なり関わっていく内に、やはりこんなものを好きになったり愛したり出来ないのは当然だという結論に至った。人を思い切り、俺は天や神に帰依することにしたのだ。

鰯の頭も

 と言っても、俺は宗教をやっているのではない。神だの天だのと言っているが、別に宗教団体に入会して祈ったり唱えたりしているのでもないし、これから先そのようなことに傾倒する予定も一切ない。俺から見れば既存の宗教は皆間違っているように見える。少なくともそれらは俺にとっては単に不要で有害な代物でしかない。誰かと一緒に何かを信じる事自体が、俺の性には合わない。

 神を信じると言うと、それだけで宗教にカブれているように思われるのは極めて不服である。神の実在を前提にして世界を捉えることと、宗教をやることは不可分ではない。有神論というのは単なるモノの見方の一つに過ぎず、ただそれは至高の一者を想定しながら個人として生きるというだけのことだ。俺からして見れば、いわゆる無神論者の世界観は卑陋で理解に苦しむ。

 神を想定すること無く生きられる人間の気が知れない。この世界は誰がどのようにして、なんのために創られたのか、人はなんのために産まれ生き、そして死んでいくのか。なぜ太陽系は現在の形で存続し、地球に生命体が蔓延っているのは何故で、どんな理由があるのか。そのようなことを僅かでも考えれば、単に現時点における科学や論理だけでは到底、説明できないと結論付けるより他ない。

 我々は一体何を知っていて、また何を知りうるというのだろうか。此の世の全てを知り尽くした人間など有史以来、存在したことはなかっただろう。そしてこれから先にも、そんな者は現れることはないだろう。人間が人間として生き、何を知り何を考え、何をしたところで、とどのつまり高が知れているのだ。そんな人間が神はいないと嘯くなど、滑稽ですらある。

 人間は不完全かつ有限な存在である。この前提をどのような詭弁や誤魔化しによって否定できるというのか。多くを知る者はあっても、全てを知る者はない。多くを成せる者はあっても、全てを成せる者はない。己自身については言うに及ばずだ。そんな人間に与えられた道や選択肢は詰まるところ、神を想定して生きるしかない。人間より大きなものを見据える必要がある。

 神を前にしては、人の世の全ては霞む。神よりも尊い人間は此の世に居らず、神域の世界と比べれば世俗のどのような時間や場所も色あせて見える。不本意な場所で憎むべき人間と接し、好ましからざる目に遭わされるとしても、それらの一切合財は重要でも重大でもない。生において唯一重要なのは神のみである。そのように考えれば、社会におけるあらゆる憂き目や面倒事など、大したことではなくなる。

 敬天愛人では駄目だと思う。人間に必要なのは単に天を敬うことだけであり、人を愛するかどうかは大切ではないだろう。大切ではないどころか、人を愛するという姿勢は人間にとって返って害にさえなると言っても過言ではない。前述したように、人間など高が知れている。人間は無知で狭量、頑迷で身勝手極まりない。そんな実相をありのまま目の当たりにし、それから目を背けないなら、どうして人を愛せるというのか。

 

 他人がどうかは置いておくとしても、俺にそんな芸当はできない。生きている人間は例外なく、愛するに値しない。俺にとっては誰も彼もが疎ましく、此の世はどんな場所であっても、生き倦ねるだけの下らない世界にすぎない。日常の、世俗的な、通常の、常識の範疇における、実利的に妥当な世界観や認識に基づいた関係性や事物といったものに、俺は一切の価値や権威を認めない。

 だから俺は信仰心を携えて生きる。本物の信心は人間への完全な不信から生まれる。人の世を思い切られた者だけが、神と直に結びつける。俺はそれを身をもって経験した。と言うよりも、人間同士の愛にこだわり続ける限り、神に至ることはできない。それ気に基づき俺は敬天だけを旨とし、愛人には異を唱えたい。人間と神仏は二者択一であり、両方を選ぶという訳にはいかない。

 本当の意味で神を信じ帰依するなら人は、人道とは袂を分かたなかければならない。聖俗は根本的あるいは究極的には相容れず、どちらかを選ぶなら他方を捨て去ることになる。本物の信心とは人間性への不信と絶望から端を発する。世のため人のためになることをいくら積み重ねたとしても、それは神に通ずる道とは真逆だ。人を思いきれない限り、神と巡り会いはしない。

 人間を思いきれず、世間に縋る気持ちを捨てきれない者は宗教団体に属する。伝統的なものであれ新興のものであれ、人間の集まりとしての組織である限り、それは俗世と地続きである。また、神と直に結びつく感覚を持てない者は偶像や経典やマントラのような繰り言に依って立つ。鰯の頭も信心からという言葉もあるように、それらのどれもが、言ってみれば鰯の頭と同じようなものだ。

 神と直に通じ結びつこうとするならば、組織も儀式も修行も、物体も言葉すらも必要ない。ある一つの直感だけで十分だ。そしてそれが腑に落ちた時、人間なるものには一顧だにしなくなるだろう。神性と人間性は究極的には正反対のものであり、これらは決して両立することはない。どちらか一方を選ぶなら、どちらか一方を捨て去らなければならない。

 俺は神仏に帰依する方を選ぶ。よって、人間という存在全般に対しては、誠に大変遺憾でありながらもコレを思い切りただ離れていかざるを得ない。人間存在への絶望こそが神へ通ずるただ一つの道であると俺は近頃つくづく思うようになった。加えて、世俗や日常という名を冠するあらゆる状況や関係性、実存的な事物や存在と言った一切に対して、自分と縁遠くなっていくのを感じる。

 そしてそれは、自分自身の人間性についても同じだ。人間としての俺の境涯、精神、性格、気持ち、人生の全てが、「人間より大なるもの」もしくは「至高の一者」どのような呼び方をするにしても、要するに神を前にすれば、まるで無きに等しいものであるかのように感じられる。人間として己が被り、かかずらっている全てのことが矮小で鳥に足りないように感じられてならない。

 人間よりも大きな何か、それについては不可知不可捉だ。あらゆる知識や経験、言葉や想像力が届くことのない超越的な何か、いわゆる神を想定しながら生きる。ただそれだけで、実利的で即物的、血も涙も情け容赦もない現実など、全くもって瑣末に感じられる。人間として生き、人間としての問題に取り組み、人として嘆き苦しむことを超えた領域に俺は思いを馳せる。

帰命頂礼

 儀式も特別な言葉も不要だ。大きな組織も尊ぶべき何者かの存在も、また不要である。修行も瞑想もする必要がない。人間として行うあらゆる行動や作為など、神の前ではないも同然であろう。人間として知れることの全て、浴し被る一切合切は、己自身が人間であるということに価値があると見なす前提の上で初めて意味が生まれる。逆にその前提に依拠しなければ……。

 俺は飽くまで人間として苦しみ、嘆き、憂いてきたのだ。己が人間であり、それであることこそが何よりも価値があるはずだと思い込み生きてきた。人間であり、人間としてという前提から自身が被るあらゆる事柄を捉え、それの良し悪しを判断してきた。しかし、その例の前提を取り払い、人間よりも絶対的でかつ大きな何かに帰命頂礼してただ祈る時、人間としてのあらゆる葛藤や煩悶などまるで効力をなさなくなる。

 人であることなど何だというのか。人として苦しみ、悩み、嘆き憂い、そして恐れてきた。そんな全てがバカバカしく思えてならなくなる。五体を投げ出し、人間であることよりも神に向き合うことを優先するなら、生活上のプラクティカルな問題など大したことではないように感じられる。それこそが信心によってもたらされる本当の、唯一の功徳なのだと俺はいま感得している。

 此の世には数え切れない程の人間がひしめき、煩うべきことは片時も途切れること無く生じ続ける。だが、神という一者にのみ心を傾け、注意を向けるなら、生きるということは即ち神との、一対一の対話となる。人間一人一人、問題一つ一つに取り組み、かかずらうことはなくなる。枝葉末節の雑多な事柄よりも、深いところには神が潜んでおり、それを見据えるだけの作業でしかなくなる、生きることはそれ自体が。

 真の意味で生きることとは神に臨むことでしかなく、それ以外は全てマヤカシだ。他人であれ自分であれ、人間というのは言ってしまえば取るに足らない。成功も失敗も、利害得失、栄達も零落も、人間としての次元に属することでしかない。その次元そのものに依拠することも固執することも、辞めてしまえばそれについては深刻になる理由など、もはや何一つありはしなくなる。

 人としての幸せや快楽も、得られようが得られまいが、別に頓着する必要はない。人間としての自分が、人間としての他者に嫌われようが憎まれようが、瑣末なことでしかない。人としての如何よりも、ただ天、神仏を前にして恥じることなく振る舞いさえすれば、それで俺は十分なのだと確信を持ち、また胸を張りながら言える。

 人間と人間であることにこだわらずに生き、また在るならば、自然と目の前に神が顕れるだろう。と言うよりも、神にすがらずにどうやって生きられるだろうか。人としての生に依らないならば、神に頼るしかない。それ以外に選択肢などないし、またその方が俺にとってはずっと良いのだと、実感している。