壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

拙い手すさび

 バソコンで文章を作ることなど単なる手遊びのようなものだ。そんなことをいくらやったところで、何の自慢にもならないし、それにより何がどうなるというものでもない。それで俺は、それによって道を切り開くという法外な夢物語に縋って生きなければならない。普通の人間なら、そんなものに人生を賭けられないだろうが、俺の人生は別だ。どうせ大した人生ではないから、馬鹿げた賭けに出るしかない。

 

文章教室にて

 いい歳をした、大人の手習いで文章について学ぶ学校に通っている。一応作家志望ということになるのだろうが、どうにも芽が出る兆しもなく、才能がないがないようだ。たかがブログではあっても、学校に行くことを決めてから毎日欠かさず文章を作るようにしていているから、場数は普通の人間よりも踏んでいるはず。それでも他人よりも上手くならないのだから、それは即ち、そういうことなのだろう遺憾ながら。

 教室に通っている他の受講生には無双できる、などと自惚れていたのに。講義を行ったり添削をしたりするのは現役のプロだから、それらには及ばないとしても、講義を受けている連中にも勝てないなら、俺としては面白くない。それらが作った文章や言動から察するに、俺より明らかに努力していないにもかかわらず。自分で言うは憚られるが、俺は他の受講生より何倍も時間や労力を文章に費やしているはずだ。

 公募に文章を送っても鳴かず飛ばず、課題のエッセイや小品を提出しても、これもまた芳しくない。綴れば綴るほど、己の文才の無さが暴かれ、白日の下に晒されるようで、俺としては言うまでもなく不服である。正直に言えば、学校に通うことにも文章を作ることにも飽きてきてしまっている。ブログさえ、続けるのが億劫に感じられ、何もかも投げ出してしまいたい衝動に駆られるのは最早、毎日のことである。

 学校に行くのに、莫大な金を俺は投じた。世間的にはハシタ金だろうが、俺としては大金だった。文章を諦めれば、それが全額ムダになってしまうのだから、それだけは避けたい。避けたいと思っているが、現状は何の足しにもなっていないのが実情だ。作家を目指せるなどというバカ丸出しの謳い文句に乗せられ、数十万円もカルチャースクールに毛が生えたようなところに支払った己の愚かさを、近ごろ思い知っている。

 文章を書くのが好きだと思っていた、思い込んでいた。ところが実際はそうではなかったと、学校に入ってから俺は気付かされた。長い文章でも短い文言でも、それらを作ったり発表したりする時に、面倒くさく恥ずかしいという思いが常にあるのだ。その行為に楽しさはあまり感じない。書くことが得意だと自負していたが、本格的に始めてみれば実のところ大してそうではなかった。

 第一、小説でもシナリオでも、エッセイでも短歌でも綴り方について他人から習おうと思うのが間違っているように思う。その手の事柄のことを自力で学べないなら、その時点で見込みがないと言えるのかも知れない。文章の書き方について、今さら一体誰から、何を習うというのだろうか。他の生徒と雁首揃えて教室で講義を受けながら、俺は自分がこの上なく惨めで、また愚かしく思えてならない。

 お前はプロにはなれないと、面と向かって言われたことさえあった。俺は小難しい単語や言い回しをするところがあり、いつもそれがネックになっている感がある。ある時に、「一事」という単語を文章に使ったのだが、講評の段にそれが駄目だと講師に言われたのには、ほとほと困り果てたものだ。その単語一つが分かりづらいだの普通は使わないだのと言われても、分からない方がオカシイと言い返してやりたくなる。

好きという罠

 文章について論じられる時、読み手を想定して書けとよく言われる。これこそが文章において最も厄介なことだと思う。文章とは決して、書き手が好き勝手にして良いものではない。読み手の方が主であって、書き手はそれに従う立場だ。そのように思えば、やはり文章を作るということは、それほど面白くも楽しくもないのかもしれない。他人に書いたものを見せる機会ができて、余計にそう思うようになった。

 思うまま振る舞えないなら、それは自由がないということだ。例の一事の件でも思ったことだが、己の裁量で単語一つ満足に使えないというのは、どうにもつまらない。俺としては、別に難しく気取った言葉を使っているという自覚は全く無いのだが、他人から見ればそうだというのだから、途方に暮れるしかない。文章の組み立て方の問題ではなく、単語一つの扱いで物言いがつくなど、全くもって納得がいかない。

 翻って、他の連中が書く文章が良いと言うだろうか。結局、俺にはいい文章というものが皆目見当もつかず、そのため改善の余地がないのだと結論付けるより他はない。すぐにでも作家になれる、などと評された受講生がいたような気がするが、それの文章を俺は全く良いと思わなかった。何の面白みも感じず、箸にも棒にもかからないような代物だと、俺は思ったのだが、俺の方が正しくないというのだろうか。

 毎日書いているブログについても、全く成果が出ていない現状だ。半年以上続け、毎日休まずに更新しているにも関わらず、アクセス数が全く振るわない。ブログは飽くまで、文章力を向上させるための練習でしかない。それが誰からも読まれなかったとしても、別に俺は一切困らない。それについて一喜一憂する理由などこれっぽっちもないのだが、それなら毎日やる意味もなければ甲斐もないという話になる。

 毎日更新しているということに加えて、文字数も相当な分量だ。このブログ一つで、ゆうに100万字は書いているのだが、それの全てをインターネットに公開していて誰の目にも止まらないというのは考えものだ。これだけ書いていても、単にただ文字を入力しているだけで、それ以上の何かにはなっていないということなのだから。書けば書くほど、書くことが徒労のように思えてくる。

 日に5000字は、毎日書くようにしているが、それもそれなりの時間と労力を要する。それが全く何にもなっていないなら、流石に心が折れるというものだ。理想としては、ブログにより他の追随を許さない文章力が身に付き、例の学校では頭角を現し全ての人間から一目置かれ、支払った学費を上回る何らかの収入なりなんなりを得られる、ような。それくらいの成果が得られる兆しが欲しいところではある。

 しかし、現実は厳しかった。書いても書いても一向に文章は上達せず、学校ではせいぜいワンオブゼムの有象無象でしかない。こんなザマでは学校に払った金を取り戻せる日は永遠にやって来ないかもしれず、俺は堪えきれない気持ちになる。半年前に戻れるなら、愚かにも貯金を崩して大枚をはたく自分をどうにかして止めていたところだろう。死に金になるくらいなら、はじめから学校など行かなければ良かったのだ。

 

 文章を書くのが好きで、それが他人より得意だという幻想に死ぬまで浸っていれば良かった。夢は夢のままにしておいた方が精神衛生上よかったと言えるだろう。金のことは置いておくとしても、自分の文才の無さを思い知ったことの方が、俺にとっては痛かった。いや、それ以上に問題だったのは、書くという行為自体が、俺は大して好きではないという『一事』だ。

 此の世に自分が一生涯を捧げられる何かがあればいいと思っていた。そしてそれは、他ならぬ書くことだと、何となく思いながら生きていた。高校生の頃はラジオ番組の投稿コーナーにネタを書いて送っていた。その頃は自分が何かを書くことが得意で、好きだとばかり思っていた。当時の俺にとって、それは唯一の趣味であり、また将来に繋がる何かだと思っていた、思おうとしていた。

 だが、所詮ハガキ職人ハガキ職人だった。ラジオにいくらメールやハガキでネタを送りつけたところで、それで何がどうなるものでもない。それはどれだけやったところで、子供のお遊びの域を出ることはなかった。俺にとってそれは、書くことへの幻想を助長させる、極めて有害な趣味であったと言っていい。それなりに番組でネタが使われる機会があったのも、また良くなかった。

 なまじ成果があったから勘違いしてしまったのだ、自分が書くことを好きなのだと。田舎町でラジオにかじりつき、はがきを書くだけの人生を送るのが、俺の限界であったのかもしれない。それ以上の何かになれる能力など、俺は持ちようがなかった。ハガキ職人としての能力があったとしても、それが別の何かに繋がるようなことはなかったのであった。

 子供の遊びレベルの範疇なら、俺はそれなりであったという、ただそれだけの話だった。それより上の世界では、俺の能力など通用しなかった。そして更に言えば、そこから伸びしろがあるということでもない。ラジオを聴くこともネタを投稿することも、一生涯のライフワークにはできない。そんなことを死ぬまでやり続けることなど、到底できないのだから、どのみち俺は行き詰まっていただろう。

 好きという幻想が崩れることを、俺は子供の頃から恐れていたところがある。どんなことに対しても、本気になって取り組んで、それで成果が出ずに自尊心が傷つくことを、俺は無意識のうちに恐れた。だから俺は、小説やシナリオなどではなくハガキ職人として活動したのだ。レベルの低い世界でそれなりにやれている内は楽しく思えても、そこから出て嫌な思いをしながら苦しんで何かを書きたいとは思わなかった。

 俺は書くことが好きでなく、言葉に興味も持てず、読み手を楽しませたいなどという思いもない。日課のブログの更新すらも、それをやるだけで何時間もかけるほど、俺には能力がない。金を払って学校に通えば他の生徒に競り負け、何を書いても誰にも評価されない。それどころか、他人からダメ出しされても改善することも能わず、死ぬまでにモノになる日は、このままでは来ないだろう。

虚仮の一念

 文章教室に行けば作家になれるなどと、本気で思っていたわけではない。それで何かが変われば、それだけで十分だと思った。実際、それにより俺の生活はある程度はマシになった感はある。例の学校に払った金をムダにしたくないがために、努力めいたことをするようにはなった。ブログもその一環であり、酒を呷る習慣がなくなったのも勉強をしなければならなかったからだ。

 学校に入ったのは今年の4月で、それ以前の俺と今の俺を比べれば、確かに変わりはした。しかし、それだけでは満足できない思いが心の何処かにある。俺には才能も能力も全く無かった、それだけが浮き彫りになった半年ではあった。何を書いても恥の上塗りになるばかりで、気乗りしなくなってきた部分もある。欲を言えば、更なる変化の兆しを俺は求めているのかもしれない。

 点滴穿石という言葉がある。気乗りしなくても書き続けていれば、その先の展望がもしかしたらあるかもしれない。面倒で、挫折しているから、放り出してしまいたい気持ちにもなるが、それでも意地で続ければ、何かがあるかもしれない。そんな希望を捨てきれないために俺は毎日、貴重な時間を読んだり書いたりすることに割いている。でなければ酒を飲んで眠るだけだろう。

 書かなければ、俺の人生はもう開かれることはないだろう。今の俺にあるのは一人暮らしを続けるために必要な生活費を稼ぐための卑しい労働だけである。それを何年、どれだけ続けたところで、ハッキリ言って未来がない。働かされ、消費し納税し、飲み食いして眠り、あとは延々と馬齢を重ねて、やがて死ぬ。俺の生などは所詮、ただそれだけの、下らない作業でしかない。それでいいというのか。

 それでは満足できないから、俺は書くことを学ぼうとした。それは間違いではなかったと思う。今はまだ芳しくないが、いつか芽が出て、日の目を見るようなことがあるのではないかと、俺は愚かにも期待している。そんな妄想を抱きながらでもなければ、俺の人生はあまりにも虚しすぎるからだ。労働と消費だけを寿命が尽きるまで、ただ繰り返すだけ生涯に、一体どんな意味なり価値なりがあるというのだろう。

 働くだけでは、もう将来がない。このまま歳を取っていくだけだと思うと、気が狂いそうになる。俺はもはや若くなく、第二新卒などで人生をやり直すことはできない。そのような立場であるからこそ、文章教室などに通い、薄い望みに賭けなければならないのだ。そうする以外に選択肢などなく、それを手放したら俺にあるのは不本意で割に合わない労働だけ、ということになる。

 書くことを仕事にすること、会社などに雇われることなく生きられるようになること、それが俺にとっての目標であり夢だった。年甲斐もなく馬鹿な夢を持ってと、世間の連中に笑われるかもしれない。何よりも、自分自身が愚かで馬鹿げたことだと思っている。バカバカしいがそれでもそれに縋らなければ、俺にはもう明日がない。いや、仮にあったとしても、そんな明日には何も惹かれない。