壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

笑えば自由になる

 ふと気がつけば、毎日どんな場面においても、顔をしかめている自分に気がつく。然それは無理からぬ事で、実際に俺の人生はそういった顔をせざるを得ないくらいのものではある。顔をしかめるという反応は、全くもって正常であり正しくマトモな精神を持っている証拠だろう。だが、そのようにすることが好ましいのか、そうすべきなのか、しなければならないのか? そうでないなら、なぜ俺は嫌そうな顔をして四六時中、生活しているか。

 

ご機嫌斜めは真っ直ぐに

 仕事で理不尽な思いをさせられ、毎日が嫌で嫌で、嫌で嫌で仕方ない。働いて食って寝るだけの一日が終われば、また働いて食って寝るだけの一日が来るだけ。それを漫然と繰り返すだけで、一週間が過ぎ一ヶ月が過ぎ、そして一年が過ぎていく。永遠にそれを繰り返すだけならまだしも、俺はそれにより確実に年老い、死に向かっていく。赤の他人に使役されることによって。

 働かされながら俺は、時間の流れに自分が晒され、己という存在が磨り減っていくような感覚に陥る。体中の細胞が少しずつ古くなっていき、老人に近づいていくような。他人に使われるだけの、利用されて終わりの人生。それでいいのか、良かったのか。絶え間なく手を動かしながらも、取り留めもなくアレコレと考える。そして大抵、此の世のあらゆるものに憤らずにはいられない。

 自分のままならぬ人生を一体どうすればいいのか、またどうすればよかったのか。そして、一体何処の、誰のせいで俺はこんな目に遭わされているのか。また、誰に腹を立てればいいのか分からないことが一層、また腹立たしく感じられる。歳を取ると癇癪を起こすものなのだろうか、若い時分と比べて、明らかに不機嫌になってきている自分に、我ながら驚くこともしばしばだ。

 意馬心猿とでも言い表そうか、自身の情緒が時に他人事のように思える。一体何にそんなにムカついているのか、またそうしたところで何になるというのか。ムカつき以外でも、己の怒りや憎しみ、不安や怖れなどといった諸々について、一歩引いて観察してればふとバカバカしくなる。思うままに感情を高ぶらせているようでいて、実のところそれは自由とは言い難い。

 己が身を置いている状況や環境といった外界に、完全に囚われている己を感じずにはいられない。嫌いな人間に雇われ、安い賃金で割に合わない労働をし、騙されて利用され、世間の連中には馬鹿にされたり見下されたりする。それだけではないが、兎にも角にもそのような有り様であるため、負の感情に支配される理由は十分すぎるほどにある。あるのだが、それでいいのか、そうするしかないのか。

 それに囚われるのが、自由と言えるのだろうか。恐れるべき場で恐れ、憎むべき相手に憎み、怒るべきものに怒る。それは状況に流され、外界や他者に操られているだけなのではないか。そのように考えれば、自由というのはそれらを遠ざけたり離れたりするのではない。そうではなく逆に、それらの影響を受けて己の心を、動かれさないようになった状態を指すのではないか。

 つまり、恐れるべき場で恐れず、憎むべき相手を憎まず、怒るべきものに怒らない。付け加えれば、笑えない事態にあっても笑えたなら、その状態を保てる間、人間は自由になれる、自由でいられるのだと言える。要するに、どんな理由によってでも機嫌を損ねている人間は自由人たり得ない。そのように考えれば、俺が不自由なのは忌避すべき労働に従事させられているからではなく、忌避すべき状況下に飲み込まれて心の自由を失っていからに他ならないのである。

心という牢獄

 自分が辛い思いをし、酷い目に遭っているから怒り悲しみ、また憎むのだと思って生きてきた。しかし、自分が被っている事柄やそれによって引き起こされる情動が、それほど大切なのだろうか。自分の気持ちが大事で重要で、唯一無二の掛け替えのないものだと、人は思ってしまいがちだが、それは本当に正しいのだろうか。ムカつくからムカつくのだと、また泣きたいから泣くのだと。それでは動物と同じではないか。

 動物は勝手気ままに振る舞うが、それを自由と呼ぶのは浅はかだろう。そんな風にモノを言う人間が居るとしたら、その者の頭は動物並みである。動物と人間を隔てる何かがあるとするならそれは環境に抗えるかどうかの一点に尽きる。昆虫や鳥獣は自らが置かれている環境を作り変えることはできない。巣を作ったり越冬や越夏のために移動したりは多少できるとしても、それは高が知れている。

 状況や環境に全力で抗うから、人間は人間なのだ。それは気に食わない人間を排除したり、好ましくない何かを拒絶したり見ないようにしたりすることだけでは足りない。人間が取りうる外界への最大の抵抗は、それによりもたらされるストレスに左右されも囚われもしないということだ。つまり、苦しみの渦中で苦しい顔をしないということ、激情に駆られても已む無い局面でその念に支配されない精神を保つことだ。

 心の赴くままに生きることは自由ではない。なぜなら、心はそれ自体が牢獄だからだ。喜びも悲しみも、慈しみも憎しみも、それらのどれもが人間を縛り付け、また押さえつけ駆り立てる。人がそれらと密になるとき、その者は自由を失う。快く好ましい気分や感情であったとしても、それに囚われている時に人間は自由ではない。どんな情念と同化するとしても、それは変わらない。

 見下され、騙され、虐げられ扱き使われる時、決して快くはない。至極、それは当たり前な話ではあるのだが、それは動物でも同じことだろう。理不尽で憤るべき状況下において、そのまま憤るとしたら、それは先に述べたように動物並みと言わざるを得ない。そのように考えれば、俺は勤め先においてはずっと、動物のように振る舞っていたと言うべきなのだろう。

 周りの一切合切は確かにこの俺を苛み、苦しめているだろう。しかし、外界が俺に与える苦しみや辛さをそのままダイレクトに受け止め、それにより胸中に沸き起こる衝動や感情を我が物にする必要もなければ、またしなければならない義務もない。人間の情緒は、自他の別なく物理的なものではない。よって、それに抗える余地は大いにあると捉えるべきだろう。

 辛い労働から解放されるようなことが、万が一にもあったとしても、それで全ての問題と無縁になれるとは思わない。生きていく上で辛く苦しいことは労働だけではなく、休みで家にいる間でも、思い通りにならないような局面に見舞われれば、俺は職場と同じように気分を害するだろう。仕事場に憂うべきことが多々あることは言うまでもないが、根本的かつ本質的な問題と比べれば、そんなものは上辺だけの瑣末事にすぎない。

 

 子供の頃から働くのが大嫌いだった。馬鹿の考え休むに似たりで、働かずに済む方法がないかと色々と考えたものだ。社会に出たら、酷い目に遭わされると学生のうちから何となく分かっていた。それを回避するためにあの手この手を講じたが、どれも結実せずに現在に至っている。結局俺は苦しい立場に置かれており、予想通り酷い目に合わされ、苦渋と辛酸を嘗めさせられる人生を送るハメになっている。

 しかし、それが重要だろうか。嫌な思いをし、辛い目に遭わされている自分の思いや気持ちなどといったものが、それほど重大だと言えるのだろうか。自分の心や気分などといった精神的な動きが重要でなかったら、それを与えている環境や他人に囚われることもなくなる。苦しいという思いと、それを与えている状況に囚われないようになるように、それらの両方に抗わなければならない。

 極端な話、苦しむべき状況など存在しない。どれだけ嫌で辛く思われたとしても、その思いに重きを置かなければ、それで終わる。いや、始まりすらしない。苦しみは苦しみだと思った瞬間に生じる。それを思わなければ、どんな苦しみの此の世には生じようがない、理屈の上では。心頭滅却すれば火もまた涼しと同じように、労働などにおいても理不尽や不条理を感じなければ、それらの一切はない。

 笑えないと思っているから、笑えないのだ。低賃金で長い時間拘束され、肉体的にも精神的にキツくて割に合わない仕事ばかりやらされ、それだけで生活の全てが締められたとしても、笑ってはならないという決まりはない。そのような条件下であっても、苦しまずに笑えるなら、俺は情緒の面で完全な自由を得られたと言って良いだろう。そうなれば俺は、今の職場でもどうにかやっていけるようになる、だろう。

 それは人間の感情としては相応しくないかもしれない。苦しい時に苦しみ、辛い時には辛いと感じ、嘆くべきことに嘆く。それが人間として真っ当な情緒というものだろう。しかしそこには自由がない。それは言うなれば、自身が置かれている状況にただ影響され左右されているだけだ。それは俺にとって本意ではない。俺が生きている内にやらなければならないのは、外界の克復なのである。

 俺には楽しいことも嬉しいこともないからそう思うのかもしれない。俺の人生が恵まれた幸福なものであったなら、平均以上の快楽を貪ることができるようなものであったなら、こんなことを考えることはなかっただろう。しかし、そんな過程は絶対に成り立ちはしない。そんなことを考えるだけ時間の無駄であり、俺は苦しみしかない人生をどうにかして乗り切る必要がある。

 現実において仕事中に笑っていたらただの異常者ではあるが。俺が言っているのは飽くまで心構えの話だ。苦しみの渦中にあっても、理不尽を被っているその只中にあっても、平気な顔をしてヘラヘラしているくらいでなければ、一体どうやって生きていけるというのか。俺の人生は物心ついてからこっち、ずっとそのようなものであったり、今もそうであるし、これから先も、死ぬまで恐らくそうなのだろう。それに耐え切れないなら、俺は生きていくことができない。

正しくなくなれ

 普通の人間の普通の感情や精神では、俺の生を全うすることは能わないのだ。それならば、人としてトコトン正しくない情緒、正しくない反応、正しくない思考や精神を備えることにより、自らを防衛しなければならないのである。俺の人生は辛くてただ苦しいだけ。そんなものに、何の見返りもなく死ぬまで耐え続けなければならない。それを正気で果たせる人間など、此の世の一体何処に居るのか。

 人として正しくあれと、親などに仕込まれてきたような気がするが、それは大間違いも良いところだ。俺が、この俺がどうして正しく生きおおせるというのか。正攻法では、とても世の中を渡って行けはしない。そのことを父も母も全く理解することはなかったし、これから先も決して分かりはしないだろう。正しい心を持ち、正しい生活をし、正しく生きそして死ぬ。俺にはそんなことは絶対に不可能だ。

 苦しみを苦しみとせず、理不尽を理不尽と思わず、不幸を不幸と感じない、常軌を逸した尋常でない人間にならなければならない。それを志向することは、言うなれば異常者になるということであるかもしれない。しかし、それの何が悪いというのか。作為的にそれになろうとし、それに徹したとして、一体どんな罪に問われるというのだろうか。俺は俺として生きるために、正しい情緒や精神を唾棄する。

 イカれて、狂っているくらいで俺はちょうどいいのだ。辛い時にそう思い、それを顔に出し言葉を吐露する。それで一体、何がどうなるというのか。職場の環境が変わるというのか。通帳の預金残高が一円でも増えるというのか。生活が少しでも上向きになるというのか。懇意にしてくれる人間が、一人でも表れてくれるのか。それらの答えなど、一々言うまでもないことだろう。

 一期は夢よ、ただ狂えというのは中世の頃に詠まれた歌だったか。それはまさしく正鵠を射ている。中世でも現代でも、日本でも外国でも、正気を保つことそれ自体に、意味もなければ価値もない。なぜ余人は、マトモであろとうするのだろうか。よりよく生きられる方法や手段の一つとして、狂うという選択肢があるなら、積極的かつ喜んでそれを選ぶことは、何もおかしくなくむしろ当然のことのように思える。

 先もなく、ただ辛い労働を延々とやらされ、歳を取り老け込んで、あとは死ぬだけの人生。そんなものに真面目ぶって臨むなど、それこそキチガイじみていやしないか。俺の人生で、苦しみや悲しみを携えることが、場違いで不適切であった局面が、これまでに一度でもあっただろうか。俺がそれらの全てに「正しく」向かい合っていきたとしてら、俺は単なる陰気な根暗になるしかないじゃないか。

 苦しみしかない渦中にあって、笑うなど馬鹿げているし、更に言えばオカシイ。だが、それくらいでなければならない。マトモで正しく、正攻法なやり方で開けるような人生では、はじめから無かった、俺の生は。俺の生が俺によって為されるものである限り、俺は正気を保つことができず、またそのようにすることが望ましいとも好ましいとも思えない。