壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

仲間、このげに恐ろしき

 大の男が仲間だの何だのと、口に出すだけで恥ずかしい。俺は常々そう思っているのだが、世間的にはそうではないらしい。マンガなどでは仲間という間柄はことさらに美化、礼賛されている。実社会においても、会社などの人間関係においては仲間という言葉は公然と使われている。また、それとして相応しい言動が要求されるため、俺は社会生活を営むことに、つくづく辟易させられる。果たして世間の方が正しく、俺がおかしく、異常なのか。

 

檄しても一人

 仲間という言葉が昔から、生理的に受け付けなかった。子供の頃からずっとそうであったし、大人になってからは輪をかけてそうなっている。故事に曰く、小人の交わりは甘きこと醴の如し。異性でもないにもかかわらず、理由も目的もなくベタベタと馴れ馴れしくするのは、どうしても性に合わなかった。ましてそれが純粋な意味合いで言うところの「友達」ではないなら尚の事そうだ。

 大人の男に友達は要らず、また普通は居ないものだろう。大人同士の人間関係というものは、基本的に利害関係や上下関係といったものを抜きにしては語れない。友達と称せる人間関係はそれには決して当てはまらないのは言を俟たない。そして大人にとっての人間関係の大半は仕事におけるものである。それに従事している最中に接する人間のことを友達だと見なすのは正常ではない。しかし、「仲間」という言葉では、どうか。

 かなり意見の別れるところだろう。実際に俺は会社における労働という名目で関わるあらゆる人間に対して、仲間だとは思えない。そもそも、仲間という概念が俺にはよく分からないというのもあるが。様々な職場において俺は、仲間としての自覚が足りないだの何だのといったようなことを色々な者どもに言われたことがある。しかし土台、俺には仲間というものが、とりわけ会社だの仕事だのという局面におけるそれが、全くもって理解できない。

 仲間とは一体何なのか。どのような人間関係を指しているのか、俺には皆目見当もつかない。この曖昧模糊とした、判然としない、良く分からない間柄を指す言葉の不可解さに俺は、不気味な感じを催す。例えて言うなら、妖怪や幽霊の類いに対して抱くような奇怪さに似ている。「仲間だろ」と言われるとき、俺は化物か何かとエンカウントでもしたかのような気がして、ゾッとするのである。

 仲間だからこれくらい許せ、仲間だからこれくらいのことは喜んでやれ、と言ったセリフに俺は、そこかしこで遭遇した。学生時代ならまだ笑って許せたものだが、社会に出てからはそうもいかない。特に仕事における人間関係において、仲間という二文字はかなり危険なフレーズだと俺は思っている。立場も利害も曖昧なままにして、他者と関わり続ければ、いつか恐ろしい目に遭わされるという懸念を、俺はいつも抱いている。

 仲間という言葉の定義については色々とあるだろうが、どんな定義をしたとしても俺には納得がいくまい。身近にいるから、頻繁に接するから、どんな理由を持ってしても、俺にとってはやはり腑に落ちることはないだろう。一個の人間同士が、深く結びつくならば、それ相応の実利的な何らかの理由が絶対に必要だ。仲間という言葉は、どう扱ってもそれが明らかにならない。

 恐らく、利害や得失を度外視した間柄こそが仲間なのだろう。実利という観点は、仲間という言葉が用いられる関係性においては無視されるのが常だ。子供や学生同士の間柄ならそれは成り立ち得るだろうが、大人同士ながら絶対にそうはならない。いや、なるべきではないのだ。己が何を得、また何を失うかを、大人なら絶対にアヤフヤにしてはならないのだ。どんな間柄においても。

都合がいいだけの人間関係

 仲間という単語を振りかざして密になろうとする人間は、俺の経験で言えば碌な奴ではない。とりわけ会社という組織において仲間だの何だのという輩は最も警戒して接すべき人種である。先に触れたように、仲間という言葉で表される間柄は曖昧この上ない。そんな関係性を職場で成り立たせれば、一体どうなるか。どんなことをやらされ、どんな災いに見舞われるか。

 会社という場では、上下関係がある。完全な意味で対等な関係が築かれるのは稀であろう。俺と「仲間」になろうとした連中は、その職場においては俺より目上の存在であった。それでありながら、その目上目下の序列を踏まえた上で、彼らは俺と「仲間」になろうと試みたのだ。これが具体的に何を意味するか、俺は直感や本能のレベルで、察することができた。

 だからこそ、俺は仲間という単語や概念に警戒し続けた。鋼のように揺らぐことない序列や優劣に基づいた仲間とは、一体どんなものなのだろう。それが築かれたとして、俺は一体何を得るだろうか。それを明確にしたいと俺は欲するが、そうしようとすれば仲間などという微妙な関係性は絶対に成り立ち得ないだろう。仲間という間柄はどこまでも曖昧なものだ。

 この曖昧さは俺に多くを強い、また奪うことは目に見えている。彼我が完全に対等であれば話はまた別だろう。しかし、俺が問題にしているのは仕事で接触する他者との関係性である。ある会社のある職場において、ある者とある者との間に、全くどんな上下も優劣もなく、それでいて仲間意識があるならば、そこにはどんな不都合も不条理もないだろう。それは美しく好ましく、また望ましい人間模様が顕現するに違いない。

 しかし、そんなものは所詮夢物語にすぎない。前述の通り仕事で関わる以上は、どんな人間同士でも上下関係や利害得失は必ず生じる。そして、それに基づいた問題や矛盾といったものは必ず生まれるのだ。それらを無視しなければ仕事をやっている最中に「仲間」などできようがない。仲間として見なされ、それとして振る舞うよう求められるということは、それらをないこととして扱えと言うことに他ならない。

 俺にそんなことはできない、だから俺には仲間などできようはずがない。少なくとも、仕事を通して仲間など作りたくもない。俺は気心が知れた何者かを見つけ出すために働いているのではない。友達だの仲間だのを作るために仕事をしているわけでもない。俺が働くのは単純に、純粋に生活を維持する金を得るためだ。それ以外のどんな目的も、理由もない。

 俺は自分の暮らしと人生を守るために仕事をするのだ。要するに金のためだけに俺は働きに出ているのであり、それをする上でのあらゆる人間関係は経済的に仕方なく、消極的に築くものでしかない。そんな間柄において、仲間だ何だのと宣う輩は、根本的に俺とは合わない。少なくとも仕事において、俺に仲間など必要ない。損得も利害も度外視した、アヤフヤで曖昧な関係など。

 

 重ね重ね書いているように、俺と仲間になろうとした者どもは、立場上目上の人間ばかりであった。それは、対等な人間関係ではなく、職場や会社における上下関係を踏まえ、それを盤石なものとした密接な間柄として「仲間」であった。そんな関係というのは、結局のところどこまでも相手方にとって都合のいいだけの代物でしかなかった。俺はそれを直感で察した。

 言ってしまえば、それは俺を上手く使うための方便でしかなかった。実質的には単なる主従関係でありながら、俺は自らを使う存在に対して親しみを感じなければならなかった、「仲間」なのだから。どれだけ上から目線で、偉そうに、尊大に、理不尽な要求を相手からされたとしても、俺はそれを全て飲まなければならない、なぜなら俺とその者は「仲間」なのだから。

 それは嫌々、消極的になされるのだとしたら、それは許されない。俺は相手を慕い敬わなければならず、どんな求めや指図、命令に対しても自主的かつ自発的に、更に言えば喜んで行わなければならない。何故か? 言うまでもない、「仲間」だからだ。他人共が俺に要求してきたのは、つまるところ自らにとってどこまでも都合のいいだけの間柄であり、俺はそれを見透かせた。

 俺は他人に使われることはできても、それを喜んだり楽しんだりはできない。ましてや己を使役する対象を慕ったり敬ったり、好きになるなど以ての外だ。対峙している存在をどのように見なすかは完全に俺の勝手だろう。にもかかわらず、それを許さない人種が此の世には相当な数いて、それが俺を口々に責め立てるのだから、俺としては堪ったものではない。

 俺を格下だと思い、心底見下しているのだろう。その者どもは俺から尊敬を勝ち取るのを当たり前だと端から思い込んでいたフシがある。俺に敬愛されることを望みながら、俺が下僕のように振る舞うこともまた当然のことだと確信していた。俺からして見れば理不尽この上ないが、とにかくそのような前提と願望を連中はむき出しにして臆面もなく俺に言うのである、「仲間だろ」と。

 決して揺るぎも覆りもしない盤石な序列に基づいた良好ない人間関係。それこそが連中が求め強いてくる「仲間」なる間柄の正体である。醴の如き交わりを俺が厭うのは、このような理由からだ。他人のこの手の魂胆について、俺は一応見通すだけの力はあるのだが、その能力で持って自らの腹の中を見透かされると、キレてくる小人どもが大勢いるから俺はより一層、世の中というものがホトホト嫌になる。

 他人を虐使するだけでは満足できない人間の心理とは、一体どのようなものだろう。己の欲得や気分を満たすために他者を利用するだけでは飽き足らない者どもの強欲さと言ったら。連中は自分が情け容赦も血も涙もない悪党であると自覚するのを何としても避けようとするきらいがある。実際はかんぜんにソレであり、ソレ然として物を言い振る舞っているにも関わらずだ。

餌食にされないように

 不当に他人をこき使う者がいるとしたら、それは紛うことなき悪である。単に悪いものが悪いものとして徹するなら、そこになんの不思議もない。ところが、そのような御仁というのは、自分が悪そのものだとは絶対に認めない。自分が理不尽で身勝手極まりない屑に他ならないということを、あの手この手で否定しようと試みる。それは他人に対しても自分自身に対しても同じで、それを行うために重要となる概念が例の仲間というやつなのだ。

 仲間だから自分の要求を飲ませてしかるべきで、またそのことでその相手から嫌われたり憎まれたりすることは有り得ない、ということにしたいのだろう。飽くまでそれはそういう設定であり、俺自身がどう思いどう感じるかなどはまったくもってどうでもいいのだ。逆に、俺がそれに則った思考や情緒を抱かないとしたら、それはそれ自体が大変な問題であるといえるだろう。

 俺の肉体を拘束したり使役したりするだけでは飽き足らず、感情や思考まで完全に自身の支配下に置きたい、連中の願望の恐ろしさよ。彼らにとって俺は、自身の都合によりいくらでも使い倒せて然るべきであり、また己に精神的な満足感を与えしめるための存在なのだ。その者どもが快適かつ気分良く人生を送るための、言うなれば犠牲となるべき対象が、他ならぬ俺なのだ。

 そんな邪でオゾマシイ魂胆を持って生きている手合いの餌食にならないように、俺は最新の注意を払わなければならない。仲間になろう、仲間だろう、などとこれ見よがしに言ってくるような輩には、ゆめゆめ気を許してはならないのだ。仲間とは耳障りの良い単語ではある。しかしだからこそそれは悪用されることが非常に多い。ことに仕事という名目の上では。

 いつだったか、勤めていた職場で目上の者どもに事業ゴミを家に持って買えるように指図されたことがある。連中は俺に自分の家のゴミとそれを混ぜて出すよう求めた。会社の金を出してゴミを始末する費用が浮くからだと言っていた。言うまでもなくそれは違法であり、万が一バレでもしたら、俺は自分が住んでいる場所でかなりバツが悪い思いをすることになる。俺はそれを憂いて連中の要求に応じなかった。しかしそれにより、彼らの気分を俺は著しく害したのだ。

 格下のくせに、目下のくせに、同じ会社の仲間なのに、なぜその程度のことも自ら進んで、喜んでやろうとしないのか。何様のつもりなのか、それくらいのリスクも負えないのか。要約するとそのような誹りを俺は被った。ゴミ出しごときで、別段どうもなりはしない。この俺が、俺達が信用出来ないのか、といった具合だ。できるわけないだろうが。

 余談だが、たかがゴミ出しであっても違法は違法だ。マナー違反などではなく、それは歴とした犯罪である。それを同じ会社に属する仲間だからと、俺にやるように命じるような人間は、相当な危険人物であることは明らかだ。ゴミ出しだけにとどまらず、仲間だからという理由で、どんな不法行為でも最終的に彼は俺に要求するだろう。仲間だから犯罪でもなんでも、俺のためにお前はやるべきなのだと。仲間なのだから罪をかぶるのは当然で、仲間なのだからその咎を受けて罰金を払ったり実刑を食らったりするのは、これまた当然だろうと。そうならない保証などどこにもない。

 己の実を守るために、自分を他人の餌食にしないために、敢えて声を大にして言わなければならないのだ。「俺はお前らの『仲間』ではない」と。