壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

厭離穢土

 欣求浄土とまではいかないまでも、とにかく世俗というものから精神的に距離を置きたいという思いが、日増しに強くなっていく。他人も、世の中も、そして自分自身に対しても、疎んずる気持ちが大きくなるばかりで、何もかもが鬱陶しく思えて仕方がない。厭世の情は極限に達し、その情動にさえも嫌気が差してくる。身も蓋もない言い方をすれば、何もかもが嫌で嫌で仕方ない。

 

好きじゃない

 厭世、この一語に尽きる。単純に俺は此の世を愛していないし、生きて動いているすべての生物が好きではない。これまであまり自覚することはなかったが、俺は人間というものそれ自体が嫌いなのだ、自分自身も。何もかも好きでないから、どうなろうとどうでもいいと思っている。そんな個体が世の中で人並み程度に上手くやっていくことなど到底無理というものだろう。

 何かにつけてうまくいかない時、俺は此の世の全てから拒まれているような気持ちにさせられる。また、己の肉体や精神を上手く御することができないとき、自分の内側に縁もゆかりもない他者が存在しているかのような感じを催す。どんな瞬間においても、自分があらゆる一切から疎外されている感覚に陥った経験は、一度や二度ではすまないほど多くある。

 俺は誰かに愛されたことなどない。息子として、男として、労働者として求められはしただろう。しかしそれは、果たされる役割が重んぜられたにすぎない。気を良くさせ、役に立ち、有益であると己を示せた場合にのみ、俺の存在は他者から許されはした。しかし、それは俺という一個の存在が肯定あるいは許容されたということを意味しない。それは単に使い道があると見なされたに過ぎないのだ。

 使えない人間に対する世間の風当たりはあまりにも厳しい、厳しすぎる。役立たずは人殺しよりも罪深い存在だと言えるだろう。俺は碌でもないちっぽけな会社の末席を汚し俗世にしがみつきながら、ほうほうの体でどうにかこうにか生きているといった身の上だ。頼られも一目置かれもしないが、さりとて職場からパージされもしない、ギリギリのラインを保つことで、目下の生活は成り立っている。

 死にたくはないものの、別に生きていたくもない。現在の気持ちを端的に表せば、このような感じだろうか。どうしても生きたい理由もなければ、死ななければならない謂われもない。激しく恋い焦がれるような誰かがいるわけでもなく、完膚無きまで叩きのめし、討ち滅ぼしてやりたいほど憎い相手もまたない。何のドラマもない、辛く苦しいだけの毎日が、のんべんだらりと続いているだけだ。

 俺は人生を愛していないし、この国や社会もまた然りだ。何一つとして、いいとは思わない。己のこの気持について、俺は延々とこれまで、誤魔化してきたように思う。自分が何者かを愛しているだとか、何か好きなものが此の世に何らかの形で存在する、ということにしたかった。そして、それを心の支えなり指針なりにして、生きていける、そうしたと思っていた。

 それが間違いだというのだ。俺には愛すべきものも、好きなものも何一つない。それはあまりにも非人間的で、寂しくまたつまらなく、人として欠けているような感じがして、いけないことのように思えた。それはどんなことをしてでも、伏せなければならず、また否定すべきことだと思ってきた。しかし、本心をどれだけ隠し、否定したとしても無理が生じて苦しいだけだ。本当は何も愛しておらず、好きなものなど此の世にはないのに。

怨憎会苦に

 誰と関わっても俺は嫌な思いをさせられる。しかし俺は、他人と接せずに生きていく術を知らない。物心ついた時からずっとそうだったし、いま働かされている職場でもクソ忌々しい連中に頭を下げたり言いなりになったりしている。そうしなければ俺の生活は成り立たず、それを避けながら生きていくのは不可能だ。対人関係で辛い思いをせずに済んだような時期など、思い返せば終ぞなかった。

 労働だけではない、休みの日にも同じだ。家でネットをやっていると、他人が放った言葉を見聞きしなければならなくなる。具体的にどのサイトのどのコミュニティに属する者どもの書き込みやら発言やらがどうのこうのと、書き立てたところで何の意味もない。眼の前に居る相手ならまだやりようもあるが、ネットの向こうに居る下衆どもの好き勝手な物言いについては、どうにもならない。

 直接かかわる人間よりも、最近はネット上で邂逅する他者の存在に対して、俺は頭を悩まされるようになってきた。無責任かつ身勝手極まりない言動に、俺の精神が打撃を被った時、それについて解決する策など何一つありはしない。加えて、それによって嫌な気分にさせられても、一円の得もない。会社でなら金や生活の為と考えれば大抵のことには耐えられるが、余暇の時間に被るとなると。

 とどのつまり、俺にとって何らかの形で他人と接触するということそれ自体が嫌なことであり、不幸のもとなのだ。人間というものが、俺にとっては好ましくなく、可能なら基本的に誰とも一緒にいたくはないというのが、偽らざる本音なのだろう。仕事以外の人間関係、家族などでさえも、俺にとっては気に病む大きな要因となる。そう考えれば、此の世には全くどこにも逃げ場などないということになる。

 他人が嫌いなのではない、国や社会が憎いのではない、この世界それ自体が、俺はどうしようもなく嫌いなのだ。そしてその嫌いな娑婆において、ダントツで嫌なのが怨憎会苦だと言える。それ以外のあらゆる苦しみもまた俺を悩ませはするものの、他人と関わることで被る被害や気苦労に比べれば、それ以外のことなど俺にとってはないに等しいと言っても、決して過言ではないのである。

 どんな場面でも、誰と一緒にいても、俺にとっては全く心穏やかではない。誰も彼もが、俺にとっては恐ろしく、また有害な存在であった。さらに言えば、俺にとって他人は9割9分、いけ好かない悪い奴に他ならなかった。何を考えているか、何を欲しているか俺には全く理解できず、俺は対人関係においてどんな局面においても悩まされ、苦しみ続けてきた。

 他人から見下されたり馬鹿にされたりすることが、年々我慢ならなくなっていく。子供の内や若い時分には耐えられたことでも、歳を重ねれば重ねるほど許しがたく思えて仕方がない。格下で、劣っていて、馬鹿にして然るべき存在だと確信を持たれたときの、他人どもの表情、目つき! 思い出すだけで身の毛がよだち、またハラワタが煮えくり返る思いだ。

 露骨に嘲り、蔑んでくる連中は、俺がその念を察したり汲んだりする能力さえないと高をくくっている。その腹の底を、俺は見透かせるがために、尚のこと一層その相手を憎いと感じるのであった。重ねて書くが、若い間ならまだ我慢できた。歳を取り、若くなくなれば、大して縁も繋がりもない者どもから低く見なされ貶されるくらいなら、いっそ殺された方が余程良いと思えるほどだ。

 

 誰と接していても、薄氷を踏むような思いがする。侮られないように、集団から除かれないように、どんな時においても俺は戦々恐々としなければならない。生きていて、気の休まる瞬間など、少なくとも他人を接触している間においては絶対ないと断言できる。俺にとって万人は常に恐ろしい。惨たらしく情け容赦のない衣冠禽獣の奇怪な存在以外の何物でもない。

 怯えながら、精神の均衡をギリギリのところで保ちながらどうにか世間を渡っている。そんな暮らしの最中に、俺はふと思うのだ、一体俺はなぜこれほどまでに心を荒ませなければならないのだろうかと。他人が強欲かつ身勝手で、邪悪で不可解な存在だというのは疑う余地などない。それはそれで一向に構わないが、問題はそれと俺の精神が不安定たらしめることの関係性である。

 他人が恐るべき存在であるとしても、それにより絶対に俺が精神に負担を被り、不安や焦燥などを抱きながら気に病み、憂わなければならないということにはならないはずだ。他者なる代物が基本的に嫌なものだということは揺るがない。しかし、それと対峙しどうにか対処しなければならない俺自身の心が、穏やかになれないとするのは、あまりにも短絡的すぎるのではないか。

 他人や世間などの様相について、どれほど悪しざまに書き連ねてもそれで何がどうなるというのでもない。言うまでもなく、そんなものは単なるぐちは不平不満でしかなく、どれだけ不遇をかこったところで、身の回りの者どもの精神が変わるわけでもなければ、社会が改善されるわけでもない。と言うよりも、具体的な働きかけをしたところで、それにより何かが良くなるなどありはしないだろう。

 娑婆は火宅であり、いかなる救いもないだろう。人間の営みなど詰まるところ一切皆苦でしかない。愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦……。それらをまとめて四苦と言う。また、それに生老病死の苦しみも加えて四苦八苦となる。要するに、生きていても辛く苦しくままならず、いいことなど何一つない。それが偽らざる現実であり、此の世の実相なのだと言うしかない。

 夢も希望も、救いもない生を俺は生きなければならない。安住の地もなく、運命の人もいない、そのような人生を俺は寿命が尽きるまで全うしなければならない。どのようにして見を処し、どんな心持ちで日々を過ごしたところで、度し難い我が身を如何にすればいいのだろう。俺は途方に暮れるしかなく、たまらない気持ちになる。此の世で生きなければならない、しかし、なぜ、何のために?

 報われず、甲斐もないような生をどうすればいいのか。何をどれだけ頑張ったところで、何がどうなるわけでもない。誰に相談しようとも、何に縋ろうとも、気は晴れず、何も解決しない。そんな境遇、星のもとで、生きていくのはともすれば死ぬよりも、よほど悲惨で辛いことなのではないか。そんな泣き言を頭の中で反芻しながら、俺は右往左往しながら、おっかなびっくり生活している。

万物を思い切れば

 救われる可能性が皆無で、望みが絶たれているのなら、なぜ何かを恐れるというのか。何かが得られないのではないかと憂う余地さえないならば、どうして俺は恐れたり怯えたりしなければならないのだろうか。俺は時折、自らの情緒がどうしようもなく奇妙に思える。胸中は穏やかならず、ささくれ立ち、汲々として、悩み、いつも気がかりな己の精神の構造や動きといったものが、どうにもおかしく思われる。

 いつでもどこでも、森羅万象の一切合財が最低最悪だというのなら、打ちひしがれることがあろうか。一つもよくなく、また良くなる兆しもないならば、全てに対して思い切ってしまえば、それで話は終わってしまう。アレのココが悪い、それはコレコレの理由でケシカランなどと言葉にし、またそれに伴う種種雑多な感情を抱いたところで、俺が何かを得ることは決してありはしない。

 言葉に表すことにも、憤ることにも、恐れることにも、何一つとして重きをおくべきでない。思いきれば、何がどうなろうと最早、知ったことではない。所詮は苦しく、ただ恐ろしく、そして忌まわしい。それらに対して、余計な言及や考察を加えるのは、どこまでも愚劣極まりなく、今の俺には思える。ムキになったり、マジになったりすることに何の意味も価値もないと、身に沁みるようになった。

 何もかも、よくなりようがなく、また大概の憂いや苦しみ、悲しみからは逃れようもない。これらについてあるがままを認め、また諦めるべきだ。一切は苦であり、それを避ける術を持たないのだと。予め、どんな安楽への道も全て絶たれているということを、ゆめゆめ忘れないようにすべきなのだ。あらゆる望みが絶たれた状態を絶望という。そしてそれは、全てを諦めた思い切りの境地でもある。

 諦め、思い切ったならば思い煩う必要もなくなる。他人や世間に対して何を言い、また思ったとしてもそれは何であれすべて蛇足となる。何も言うまい、思うまいと自らに言い聞かせるだけで、それだけで全ては事足りる。また、自分に向けられるあらゆる言葉や思惑の一切についても、俺はどんな感情も感想も、抱く必要はなくなる。これもまた、全ては蛇足だと言える。

 何も望まず、願わなければそれらが叶わず、ままならなかったとしても何かを感じる必要はない。やむをえず、生理的な反応として自らの内に何かが惹起されたとしても、それを後生大事にして重大な何かとして取り扱う必要もない。重要なことなど、厳密には何一つありはしない。それは外界の諸物や諸現象についてはもちろん、内界においても同じだ。

 他人が悪意を持ち俺に何かを言ったりやったりしてきても、それについて推し量ったり洞察する必要もない。他人どもの心境も腹積もりも、事情も都合も何もかも、俺には知ったことではない。それらのどれもが大切ではなく、重要でもない。全ては取るに足りないことでしかなく、真面目くさったり深刻ぶったりしなければならならないような、ものではない。