壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

夜長の御託

 ブログを書くのに時間を掛けすぎている。今日は何も書くことがなく、書き始めたのが日付が変わりかけるほど夜中になってからだった。一晩中かけて、書き終わる頃には東の空が白んでいるという始末。ブログを書くことは俺にとって本業ではなく、そんなことを生活の中心にするべきでもない。これからは時短時短でやっていかなければならないと、夜を明かしながら実感している。

 

時間がない

 雨の日も風の日も、仕事があろうがなかろうが、俺は一日も欠かさず長い文章を作ることを自らに課している。働きながらそれを続けるのは言うまでもなく辛いが、休みの日もそれはそれで別の苦労がある。働きに出ていれば、否が応でも何かが起こり、誰かと関わらざるをえない。よって、それについて書けばその日の分の文章は難なく出来上がるが、仕事が無い日はそうはいかない。

 今日は祝日であり、俺は一切なにもしなかった。なにもしなかったせいで、文章にスべきような出来事も何一つありはしない。そのような理由から俺は、休日のほうが却ってブログを更新するのが億劫に感じる。ブログごとき、何をどれだけ書いても構わないのだが、制約がないと逆にどうしたら良いか分からなくなってしまう。一日中寝て過ごした日には特に。

 そもそもこのブログは、文章力を向上させるためのトレーニングとして始めた。別に気の利いたことを書き残したいわけでも、アクセス数を稼いで何かに繋げたいといった腹づもりがあるのでもない。とにかく多く書くということを目的としているため、ハッキリ言って内容などどうでも良い。最低限、日本語の散文になってさえいれば、それで及第なのだ、俺としては。

 だが、そのような低いハードルを超えるだけでも、実際はそれほど楽ではない。毎日1000文字の文章を書く、程度の目標であればそんなものは屁でもない。俺が自らの貸しているのは毎日最低5000字の文章なのだから、それを満たしつつ前述のハードルを超えるのは実のところナカナカに骨が折れる。短い文章を数記事、合計して5000文字というのではなく、ひとまとまりの文章として5000字を超えるとなると。

 毎日毎日、たとえ駄文であっても5000文字の文章を作れる人間はそう多くないだろう。いたとしてもそれは、学生かニートくらいのものだろう。俺は一応、労働者としてフルタイムで働いている。俺と同じ条件下の人間に限れば、毎日5000字書く作業は大きな負担となるだろう。それを実践し現在進行形でやり続けている人間は、手前味噌になるが相当、稀だと思われる。

 それだけに、俺は他人にはない余計な面倒を味わわされる。休日は一日中のんびり、気苦労なく過ごしたいものだが、俺は文章を作らなければならない。それなりの時間と労力を割かなければ、5000字の文章を作りおおせるのは不可能で、そのために休日でも結構、手間取らされる。例えば、次の日の仕事に備えて眠らなければならないのに、夜更かしをする羽目になる、今夜のような。

 いちいち書くまでもないが、時間は有限である、誰にとっても。ブログに手間取ればその分だけ他のことをする時間の余裕がなくなっていく。本音を言えば、一秒でも早く済ませてしまい、寝るなり何なりしなければならない。一円にもならないブログのために、翌朝の仕事に差し障りがあったら、コトだ。ブログに載せる文章のために生活が脅かされるような事態に見舞われるなど、あってはならない。

身を切られるような

 最近は特に、「時間がない」が口癖になってしまっている。要するにそれは、貧乏暇なしという一語で言い表せる。もしも俺が会社勤めなどせずに済むような身の上であったなら、こんな悩みもなかったに違いない。ブログだろうが何だろうが、何時間でも掛けられる、そんな人生が遅れたならと、俺は苦役に耐えながら夢想する。時間があれば、自由になれたらと。

 毎週末、俺は文章教室に通い、それが終わると国会図書館に行く。時間さえあれば俺は、何時間でもそこで勉強をしたいと思っているのだが、土曜日においてはそこは17時で閉館となってしまう。また、日曜日と祝祭日は休館であるため、平日働いている人間が国会図書館に行こうと思えば、それができるのは基本的に土曜日のみだ。それについても俺は、時間があれば、と思わされる。

 時間とは貴重なものだが、そのことについて切実に考えると精神を病む。働かされている間などは特にそうで、掛け替えのない時間を安く他人に売り渡しているという現実を思えば、どうしても穏やかではいられない。なぜこんな目に遭っているのだろうか、他にやりようがあったのではないか、そんな風なことを、とりとめもなく考えてしまう、それこそも一円にもならないのに。

 時間を有意義に使えていないと感じると、それだけで身を切られるような思いに囚われる。焦燥感や喪失感に駆られ、気が狂いそうになる。思えば、人生とは時間そのもので、それは有限であり、また個人という存在も限界がある。それを有効に使えないどころか、生活のために已むを得ないとは言え、他人のためにそれをドブに捨てるような愚行に甘んじるなど、バカバカしいにも程がある。

 時間がないと独りごちる度に、我が身の卑しさを思い知らされる。自分のために自分の時間を使えないのだから。ブログを書くための時間を惜しむのもまた然り。明日の時間を全て、自分自身のためだけに使えたなら、早く書き終えて眠らなければならないなどと、果たして俺は考えるだろうか。そうしなければならないのは、重ねて言うように次の日の仕事に備えなければならないためだ。

 ノンストップライティングで5000字、手を止めずに書けたらさぞ楽だろう。実際はそうもいかず、俺はキーボードを打つ手を頻繁に止める。言葉を書き連ねて文章にするのは、俺にとって決して楽な作業ではない。そしてそれは気楽にできないからこそ時間を要し、生活を逼迫させることになる。時間がない、時間がない。早く終わらせて他のことに取り掛からなければ、と。

 文章を作る手が止まる度、焦りで胸がひりつくようだ。ジリジリと、時間が無意味に空費されていくのを感じる。書き終えるのが遅くなればなるほど、俺の休日における時間が無意味に削られていく。睡眠時間も短くなり、労働に支障をきたすのではないかと気がかりになる。眠気を堪えながら休業日明けの仕事をするのは、さぞ辛くシンドイだろうなどと考える。

 眠るだけではなく、他にもココには書けない行為についても、俺はしなければならない。そのための時間もまた確保しなければならないのだから、書いても書かなくてもかまわないようなブログなど投げ出すなりサボるなりしてしまいたい。しかし、そんな選択肢は俺には与えられていない。自らを厳しく律することで、個人は他人からの支配を免れるのだと俺は信じている。

 

 俺は労働者として人生の殆どの時間を費やさざるをえない。単純に会社に拘束されている時間だけでなく、通勤時間も含めれば、相当長い時間を赤の他人のために俺は捧げているということになる。さらに言えば、自宅にいる間においても、仕事に備えて食事を摂ったり眠ったりする時間もまた働くためのものだと考えれば、一日の大半が「仕事のための時間」として割かれていると言えなくもない。

 万人が自分の人生を所有しているというのは、途轍もない幻想だろう。中流以上の人間にとっては、なるほどそうかもしれない。しかし、他人に使役されることにより生活を成り立たせているような下層階級の人間の人生というのは、当人のものだなどと、果たして言えるだろうか。俺は社会に出てから、職を転々とし誰かに雇われる賃金を得ることにより糊口を凌いできた。

 どんな仕事し、どんな職場に居たとしても、俺にとってそれは屈辱以外の何物でもなかった。時給換算で一時間600円だろうが3000円だろうが、俺にとっては同じことだった。一度しかない人生の、貴重で掛け替えのないはずの時間を、どうでもいい赤の他人にくれてやっているのだから、それにいくらの値がつこうが俺にとってそれは喜ぶべきことでも何でもない。

 俺にとって、生きることと他人に使われることは完全に同じことだった。雇用契約の内容や労働環境の仔細がどうであろうと、そんなことは瑣末なことだ。他人に使役、虐使されることの意味について、鋭敏な感覚を持ってよく考えてみれば、どうして会社勤めなどできようか。それは正常かつ真っ当なことだと俺は思う。漫然と他人に良いようにされることは、賢明であったとしても俺にとっては望ましくも好ましくもない。

 貧乏暇なしという言葉がそのまま当てはまるような人生など、生きるに値しない。思い返せば俺の人生は、まさしくそのような浅ましく卑しいものでしかなかった。誰かに雇われ、どこかに属し、苦役に耐え利用され搾取されることを前提とした躾けや教育を、俺は施された。誰かに雇われなければ生きていけないのだと、俺は刷り込まれて育てられた。働かざるもの食うべからずと。

 時間がないというのは、下劣な人間の言葉であり、それこそが俺の口癖だった。寸暇を惜しむことこそが、俺の人生そのものであった。そうしたくなかったが、そうするしかなかった。それを拒むなら、俺は社会生活を営むことが出来なくなる。薄給と引き換えに、自分の時間を他人に毟られることにより、俺の暮らしは辛うじて成り立っている。

 己の価値の無さを、恥じずに済む理由がない。本来なら、値千金であるはずの時間を、俺は僅かばかりの金のために惜しげもなく他人に捧げている。これが恥でなくてなんだろうか。これが屈辱でないなら、一体何だというのか。他人から時間を搾取されることを是としなければ、生きていけないというなら、端から生まれてこない方が良かったと、最近は思うようになった。

手早く済ませられるよう

 いくら愚痴をこぼしたところで、何も変わらないだろう。時間に余裕がある仕事に在りつけける可能性はなく、ある日突然有閑階級に成り上がるということも有り得ない。結局、俺は時間を他人にくれてやらなければならない。そのため、時間を有効に活用しなければならないという、月並みすぎるほどに月並みな結論に至る。そしてそれを実現するためには、ブログなどに時間を掛けている場合ではない。

 今後はブログの文章を作るために要する時間をできるだけ短くしていかなければならない。余暇の時間をブログだけに費やすわけにはいかない。他にも読んだり書いたりしなければならなず、たかがブログごときに手を煩わせるのは、根本的に間違っている。先に述べたように、ブログなど俺にとっては単なる練習でしかない。練習だけに全ての時間をかけるのは愚かなことだ。

 長い文章を難なく作れるようになるために、ブログをやっている。記事一つに何時間も要するのなら、その時点でその目標を満たしていないということになる。書くという行為に苦労が伴うのだとしたら、それ自体が問題なのだ。理想としては息をするように散文を量産できるようになりたい。それを達成するなら当然、所要時間を如何に短縮するかが重要になるだろう。

 具体的に、このブログの記事一つを作るのに、どれだけの時間を割いているだろうか。細かく測っていはいないが、少なくとも1時間や2時間では済まないだろう。今の俺の状況は例えるなら、アスリートが体力づくりのための走り込みに何時間もかけ、それをするだけで息も絶え絶えになっているような、そんな状態だと言えるだろう。かけている時間も惜しいが、かと言って走らないわけにもいかない。

 文章を作っていると、どうしてもイッパシの内容にしたいという下心が出てしまう。技巧を凝らそうとしたり、斬新な内容を表現したりしようと試み、それにより余計な時間がかかってしまう。その結果、ブログにより生活が圧迫され色々な不都合や問題が生じる。上手くやろうという気持ちを一旦、完全に取り払ってしまうべきだろう。呼吸する時、上手くやろうなどと思う人間がいるだろうか。

 仮にそうしたら、却って息が苦しくなるだろう。なにかが首尾よく行えるのは、そのような下心がない時だ。心を虚しくして書けるようになれば、時間を短縮するだけにとどまらず、却って文章のクオリティも、もしかしたら向上するかもしれない。後者については重要ではないが、とにかくブログに割く時間をどうにかして短くしなければならないということだけは言える。

 なにはともあれ、手早く済ませるようになることだ。書くということに限っても、ブログを書くだけで終わりではない。それ以外の文章も、これからはたくさん作っていかなければならない。それを可能にするには、ブログに一つに何時間も書けるのはナンセンスというものだろう。時間を如何に捻出するかは、何をするにしても重要であり、とにかくブログごときに煩わされるべきでない。