壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

いずくんぞ知らんや

 傲慢で身勝手な恥知らずどもが此の世には夥しく存在している。そんな者どもが世の中を我が物顔で肩で風を切って渡り歩いているから、俺はこの国をどうしても好きになれない。どんな場所にもそのようなタイプの輩は居り、それが隣人であった場合の不幸というのは筆舌に尽くし難い者がある。しかし、ソレが抱いている魂胆や、それの被害を受ける俺の心の動きといったものに、果たしてどれほどの値打ちがあると言えるのか。

 

推し量れるが

 毎朝、同じマンションに住んでいる隣人がケタタマシク音を立てる、ドアノブで。その男が引っ越してきてから、もう半年以上、一日も欠かさずそれをやるのだから堪らない。ついでに言えば夜の9時から10時ごろあたりにも同じようにガチャガチャやり、これもまた非常に神経に障る。俺は可能な限り大家や隣人などと接触を避けたいため、文句を言うことは能わない。しかしとにかく、うるさい。

 もしかしたら、神経症などの病気なのかもしれない。少なくとも20回は毎日のように、ドアに鍵が閉まっているのを確かめるようにしてノブを回しつつド施錠されたドアを幾度となく前後に激しく動かす。言うまでもなく、その最中に出る音は極めて大きい。単に隣人が精神を病み、強迫観念か何かに駆られてそれをやっているのだと数年来、俺は見なしていたのだが今日、ともすれば違うかもしれないと思い至った。

 隣人は隣に住んでいる俺に対して、嫌がらせで音を立てているのではないか。自分が外出する前に、家のドアが締まっているか、鍵がかかっているか不安だから、奴は例の挙動をしているのではない。そうではなく、隣室の男は俺の精神に何らかの打撃を与えたいという悪意に基づいて、言わば攻撃の意図を込めて鍵を閉めたドアをガチャガチャやっているのではないだろうか。

 そう考えると、無性に腹が立ってくる。今日、それがあった折、俺は入浴中だった。湯船に身を沈め、くつろいでいる間に例の音を隣人が立ててきたのだ。俺はその時またか、と思った瞬間、前述の考えに辿り着いたのだが、その瞬間に俺が抱いた憤怒の情は我ながらとてつもなく大きく、そして激しいものだった。第一、明らかに向こうが加害者であるにもかかわらず、音でもって俺の聴覚に危害を加えているのだから。

 一体、俺の何が気に入らないというのだろうか。俺の生活音が癪に障ると言うのなら、俺はすかさず反駁できる。なぜなら、日常の所作において出している騒音は、ドアの件を除いても圧倒的に敵側の方が大きいからだ。奴は知人だか友人だかを夜中に招いては大騒ぎをする。客人は男であったり女であったりするが、そんなことはどうでもいい。日によっては4、5人で夜通し騒ぎ続けることさえある。

 普段の自らの暴挙を棚に上げて、何が気に入らないのか知らないが、悪意や害意に基づいて俺に嫌がらせをするなど、一体どういう了見なのか。別の話になるがある時、俺が帰宅して通路を通行している際、隣人が在宅中であり俺の足音に反応するかのように舌打ちをしたのを思い出す。それだけ見ても、隣人は明らかにこの俺を嫌っているのは疑う余地がない。そしてドアのガチャガチャ攻撃も改めて思えば、また然り。

 隣人の邪悪で腐り果てた心根は最早、火を見るより明らかだ。大体、思い起こせばソレが越してきた日から、嫌な感じがしたのだ。親の車に荷物を載せて、その男は俺の隣室にやってきたので、学生か何かなのだろう(その車は袖ヶ浦ナンバーだった)。夜中に友達か何かと騒いで談笑している最中の話も丸聞こえで、どうも大学生ではないらしい。専門学校か何かに通っているクソガキが、幼稚な悪意を俺に向けているということになる。しかし、そんなことが一体なんだというのだろうか。

他人の気持ちなど

 腹を立てつつも俺は、バカバカしく下らなくて仕方がなかった。自分がそんなことで心を動かされているのがまず、気に食わない。そしてそれより一層、いけ好かないのは他でもない、隣人の害意だの悪意だのといった、いわゆる気持ちというやつだ。どんな腹づもりや魂胆があり、何を考えて何を感じ、どんな思いを抱いていようが、それの仔細の全てが俺にとってはどうでも良く、取るに足らなかった。

 それについて俺がどれだけ察し、見透かしたとしても、それもまた詰まらない。袖ヶ浦だか何処だかから出てきた、親の金で一人暮らしをしている頭の悪い小僧の考えなど、たかが知れている。また、実際に被っている被害が、せいぜい騒音程度だからまだ大目に見られるということもある。大勢連れ立って夜通しドンチャン騒ぎを繰り広げる隣人について、マンションの管理会社に苦情でも言ってやろうかと思ったが、それもやめた。

 それは問題を余計にややこしく、大きくするだけだ。管理会社に苦情を言い、それにより隣人に俺が文句をつけていることが当人に知れたら、騒音だけで済んでいる嫌がらせがエスカレートする可能性がある。因みに俺のマンションは洗濯機を屋外に取り付けなければならず、また自転車も通路に置いてある。隣人の悪意や怨恨を増幅すれば、何が起こるかなど想像に難くない。

 何を考えソレが夜中に大騒ぎし、何が気に食わずに俺に嫌がらせをしているのか、考えたり察したり、思い煩うのも容易い。容易いがそんなことにかかずらうだけ時間の無駄だ。それについて何らかの対策を講じたり、それについて腹を立てたり気分を害したりすることが、心底バカバカしく思えてならない。どんな人間に対しても、俺は相手の気持など汲まないが、隣人については腹の底から軽蔑しているから、尚のこと考えたくない。

 ある時、夜中に隣人が、男の友達と女一人、合計三人で大声で「恋バナ」をしていた。その時に俺はその者どもの会話の内容について、嫌でも耳に入れざるを得なかった。それを聞いた限りでは、若いということを差し引いても何というか、救いようがない典型的なDQNと言うか愚劣きわまりない精神の持ち主であると窺い知れた。普段から迷惑を被っている俺の認知バイアスがそう思わせただけかもしれないが。

 こんな野卑な輩について考えたり感じたりするのは単なる屈辱だ。もしかしたら、俺の方に途轍もない、言い逃れようがない過失なり非なりが、ともすればあるかもしれない。だが、そんな可能性について気にかけることさえ俺はしたくない。なにせ、普段が普段だからだ。ドアで音を立てるという幼稚で下らない報復のやり口もそうだし、俺が通路を歩いている時に自室の中からこれ見よがしに聞こえるようにして舌打ちをしてくる卑怯さもそうだ。

 この手の類いの加害行動に及ぶ人間の気持ちなど、慮る義務が俺にあろうか。なにも隣人に限った話ではない。俺は、他者の思惑や都合などに対しては、基本的に重く見はしない。ある個人の情緒というのは、当人の中だけで完結するものであり、待たさせるべきだ。俺自身の気持ちや感情といったものに対しても、誰かが察したり汲んだりしたことは稀である。そしてそれについて俺は、オカシイだの間違っているだのと、微塵も思わないし感じない。

 

 俺からして見れば「自分の気持ちを損なうな」といった主張なり命令なりは、噴飯物だ。一体何様のつもりなのだろうか。自分の心の中における状態や動きとったものが、自分以外の人間にとって、価値なり意味なりを持ちうると考えられる精神構造が、俺には全く理解に苦しむ。改めて考えてみれば、それは全くもって身勝手極まりない、さらに言えば自惚れも甚だしい理屈である。

 どんなことにも言えるが、何かが大切で重要で、掛け替えがないのはある個人がそう見なしているからだ。その大切さや重要性、掛け替えのなさといったものは、飽くまでそう見なしている当人の中においてだけ有効な代物でしかない。何をどれだけ重く見るかについて、万人が等しく共有するということは、極めて稀である。そんなことは夢物語でしかないと言い切ってしまっていいかもしれない。

 いわんやそれが、たくさんの人名や国家百年の大計などならともかく、ある者の気持ち若しくは気分といったものだとしたら。そんなものを本人以外が取り計らい、右往左往するようなことが仮にあったとして、それは至極当然だと言えるだろうか。もし、そんなことが有り得るとしたら、その人間はどれほど偉く尊ぶべき存在なのだろうか。貴く、ヤンゴトナキお方なのだろうか。

 余程の大人物でもなければ、それには該当しないと俺は考えるのだが。世間一般の有象無象どもがそれだと見なして生活するなど、俺には到底不可能だ。ましてやそれが同じマンションに住んでいる隣人、親の金で下らない学校に通うために千代田区で一人暮らししている低能DQNの下等生物であったなら。そんな代物の気持ちといったものを一々考える義務を、俺がわずかでも負っているなど、そんなことあるものか。

 鍵がかかったドアをガチャガチャと幾度となく鳴らされ、通路を歩くだけで聞こえるようにして舌打ちされ、仲間と酒を酌み交わしては動物のように夜通し大騒ぎをするような、そんなに衣冠禽獣の人非人が何を考えて生きているか、そんなものはこの俺の知ったことではない。そんな輩の意を逐一、汲んでやらなければならないのだとしたら、俺はどれほど惨めな存在なのだろう。

 俺には知る由もないが、それは俺よりも将来有望なのかもしれない。そういう可能性は、万が一ではあるが有り得る。そうであったなら、人間としての存在価値は敵の方が俺よりも上だということになってしまうだろう。だが、そうだったとしても、そのために俺があらゆる理不尽や横暴について涙を飲み、堪え難きを堪え、忍び難きを忍ばなければならない方などない、はずだ。第一、そんな可能性など現実には絶対に有り得ない。親の力により都心で一人暮らしをして、好き勝手に暮らしているだけの低能だ。若かろうが何であろうが学校が終わり次第、ソイツの将来は閉ざされるのは必定で、専門学校ならせいぜい1年か2年といったところだろう。

われ関せず

 要するに、人間の感情や気持ちなどの類いについて、どこまで重く見るべきかという話に尽きる。それは同じマンションの隣に居座っている人間に限らず、職場でもどこでも、全く同じことが言える。そして極めつけは、己自身の感情や情動といったモノについても、一体どこまで重要だと見なすべきかということにもなってくる。彼我の別なく、思いというもの全般について。

 感情をはじめとした精神活動や反応がその持ち主の中だけで完結するということは既に書いた。ある一念が当人の精神を超越し、物質的な外界に干渉したり作用したりなどは決してありえない。そう考えれば、人間の感情などというものについて、それが善意であれ悪意であれ、功利を求めれるものであれ私利私欲のためのものであれ、一顧だにするほどの価値もないということになりはしないだろうか。

 人間の思いなど大して重要ではない。他人のものであれ己自身のそれであろうとも。そのような意味で言うなら、人間は感情に囚われてはならないのだとも言うことができるだろう。四年や情動などといったものを重視すればするほど、人間は感情的にならざるを得なくなる。そしてさらに、冷静さを失い、自分の感情に振り回され、他人の身勝手な振る舞いが我慢ならなくなっていく。

 嫌がらせや侮蔑、嘲弄などといったものを他人から食らわされた場合、俺は律儀にそれらに反応してきた。隣人が出す騒音による被害を受け、それに対しても俺は、紋切り型の反応をし、憤り恨めしく思ったのがその、いい一例だと言える。結局のところ、他人の意見や精神を変えようとしたり、相手に一矢報いようなどとしようとしたりすることは、見当違いの徒労にすぎないということになるだろう。

 前述したようなマンションの管理会社を挟んでの応酬になった場合、俺の方が多く被害を被るだろう。何しろ相手は単細胞のDQNだ。外で野ざらしになっている俺の洗濯機や自転車、あるいは干している洗濯物などに、どんなことをしようとしてくるか、大体の予想は立てられる。それを恐れて泣き寝入りするしかないというのではなく、敵が立てる騒音を始めとした迷惑な加害行為について、律儀に俺が反応しなければ全て、それで話は終わり手打ちになるということだ。

 反応したら負け、くらいに思っていい。重ねて書くが、これは隣人に限った話ではない。他人の感情を察し、意を汲んでしまえば、そのままその相手に飲まれてしまうだろう。そしてそれに振り回されて胸中を掻き乱され、穏やかに振り回されるような有り様になるのは俺にとって全く本意ではない。

 他人の気分や機嫌、都合だの事情だのについて、俺にはまるで関係ない。自身のそれらによって、俺を意のままに操作しようと企む悪漢どもに、思えば俺は散々悩まされてきたものだ。隣人の件はその一例でしかない。他人が自分の思い通りに動かなければ、それを不服でオカシイなどと考え、臆面もなくそれを表明する傲慢な、世間によくいる連中の一人でしかない。我関せず焉。