壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

いっそ綺麗に死のうか

 人間という生き物と、それが行うことやそれによる所産の全てが、不意に嫌なものに思えてくる。それは暮らしていくのに欠かせないものであっても、それが不可欠な自分自身に対して、嫌悪の情の矛先が向かうだけだ。人間なるものに俺は幻滅し絶望せずにはいられない。生きることをつくづく倦むような毎日を送っていると、死ぬことが待ち遠しくなってきてしまう。

 

怨憎会苦に

 人間が嫌いだ。特定の誰かが嫌いだというのではなく、人間という存在とそれによる営みの全てが、俺はトコトン嫌いなのだ。本当に言葉そのままの意味で、俺は人間というものがどうしようもなく嫌いで仕方がないのだと最近、ハッキリと感じるようになった。子供の頃からずっと、好きになろうとしたり、嫌わないようにしようとしてきた。しかし、それは己の本心から目を背ける行為でしかなかった。

 興味がないのではなく、嫌いなのだ。誰も彼も腹立たしくまた、いけ好かない。善良というのは所詮ファンタジーにすぎないと、長い歳月を生きてきた俺の結論である。此の世で生きている人間は、ただ一人の例外もなく邪悪で陰険で、理に適ってもいない、正しくもないようなことを後生大事にして、身勝手きわまりない欲を振りかざして、他人を害することを当たり前だと信じている。

 他人と関わっている時間は、俺にとって全て苦痛だ。家族と一緒にいることさえ、俺にとっては嫌な時間でしかなかった。誰と一緒であっても俺は窮屈に感じ、此の世のどんな場所においても俺は針のむしろに座っているかのような感じだった。俺にとって他者というのは全て不可解で不気味な存在でしかなく、そのような意味合いでもやはり、一人の例外もなかった。

 学校も嫌だったし、会社もまた言うに及ばずだ。誰もと接することなく一日をやりおおせることができれば、それは俺にとっては幸福で良い日だった。誰かと顔を合わせ、言葉を交わし、場合によっては交渉や取引までしなければならないなど、考えるだけで気が滅入る。誰かに会わなければならないと、そのことを頭の中で思い浮かべるだけで俺はめまいがして、嫌な感じがする。

 家に引きこもってネットをやっていても同じような気持ちを味わわされる。掲示板でも動画サイトでも、俺は他人の意見が流れてくるのを恐れている。生身の人間が放つ言葉は俺にとっていつも無神経かつ無遠慮、箸にも棒にもかからない手前勝手な暴論や放言でしかなかった。実在する人間の意見や言葉、あるいは吐露される感情といったものが、俺にとっては常に目の毒にしか思えなかった。

 子供の頃、此の世からすべての人間がいなくなることを俺は夢見た。幼かった俺は、地球上から自分以外の全ての人間が一掃され、己一人が地球外生命体に救い出され、何処かの別世界で安楽に暮らすといった空想を繰り広げたものだった。また、家族全員を何者かに売り渡し、それらの代償として大金を手に入れて自分ひとりが幸せに暮らすという望みを抱いたこともあった。

 そんな妄想において何か問題があるとしたらそれは、自分自身というものを絶対不可侵のものとしたということだろう。他人など取るに足らず、省みる価値もないと思うのは個人の思想にすぎないのだからそれは自由というより勝手だろう。しかし、人間というものが嫌いだということには一つの致命的な問題を抱えている。それは、その嫌っている自分自身が、他ならぬ人間だということだ。

誰も好きじゃない

 合理的でも論理的でもなく、単に身勝手で己の都合だけを醜く、やかましく言い立てるだけの存在が人間だ。それはいいとしても、では自分自身は一体どうなのだろうか。己だけは例外的に綺麗で潔白、清廉な存在だなどと言って憚らないほど、俺は恥知らずではない。人間を忌み厭うならば、それは最終的に己を否定する結論に至ることになる。それについてどうするべきか。

 生きて動いているものは全て嫌いなのだ。人間だけではない、蚊やゴキブリ、ネズミや猫も嫌いだし、生命という代物それ自体が、根本的に俺はどうしても好きになれない。生きとし生ける物のあらゆる営みが俺にとっては何というか汚らわしい。マンションの脇に生えてくる雑草さえも、俺には憎らしく感じられる。生きているものは生きるということへの憎悪が俺の中にはある。

 そしてその憎悪は最終的に己へ向かう。俺もまた人間であり、生き物のうちの一つでしかないという簡単かつ揺るぎないこの事実を。俺が外界に存在するあらゆる他者、あらゆる他人に対して抱く嫌悪や厭世の感情は、全て翻って自分に返ってくるのだ。俺が人間であるなら、先に述べたような要素の大半が言うまでもなく自分にも当てはまり、それは婉曲的な自己批判になる。

 俺にとって他人というのはどんな時も陰険で欲深く、理不尽で自分勝手な嫌なものだった。しかし俺もまたそれらの要素をすべて備えていて、人間である限りそれから逃れることは絶対にできないのだと、事あるごとに思い知らされた。自分のことが嫌いだから、俺はこの世の誰ひとりとしても、どんなことに対しても、好きになれなかった。捉える一切が呪わしく思えた。

 俺は国を、故郷を、そして家族さえ嫌いだった。生きて存在しているというだけで、万死に値するように感じられた。だが、オレはそれらの中でしか生きられない。この根本的な矛盾について考えれば、どんな局面においても白けてしまう。嫌いな国に産み落とされ、憎むべき故郷で育てられ、卑しい家族とともに生きてきた。そんな己の存在自体はやはり、嫌いで憎むべき、卑しい存在だった。

 他人だけが嫌いなら、それから遠ざかりさえすればいい。だが、嫌悪の情が自己に向かうなら、逃げ場などどこにもない。逃げる場所はおろか目指すべき先もなく、オレはただ途方に暮れるしかなかった。家の中で姿見に視線を投げれば、それにそのまま此の世で最も蔑むべき存在が映し出される。外にいるときでさえ、車や建物に填め込まれた窓に映る己の像を、俺は何よりも恐れ、避けた。

 自分が自分であることが、俺にとっては忌まわしい。昨日も今日も、そして明日も明後日も俺は俺以外の何かであることは決してない。この事実がどんなことよりも残酷に感じられる。顔も身長も、これから先に悪くなることはあっても良くなることは絶対にないのだという絶望。何をどれだけ頑張ろうが、それが覆ることも変わっていくこともないのだから、生きる甲斐もない。

 何をやっても面白くも楽しくない。何かを行う主体としての己も、その客体となるナニモノかも、まるで好ましくなかった。そのために俺は何も人並み以上にできなかった。お前は出来損ないで、生きている価値が無いと会社でも学校でも、家の中でさえ俺は全ての他者に言われ続け、罵られ、貶され、嘲られ続けた。しかしそれも無理からぬ事だったのかもしれない。

 

 何も好きになれなかったから、何にも打ち込めなかったし、誰からも好かれなかった。しかしそれを問題だとも思わなかった、何も好きでなかったから。俺は何者かを愛したことはなく、そのために何者からも愛されることはなかった。家族にも邪険にされ、家の中でも居場所などありはしなかった。俺は身一つで誰かから肯定されたことなどなく、またこれから先もそんなことは決してないだろう。

 他人が俺に構い、無関心でないからといって、その者が俺を気にかけているというわけではなかった。それは両親でさえ例外ではなかった。彼らにとって俺は掛け替えのない存在ではあったかもしれない。しかしそれは実子の、長男という記号として替えがきかないという意味でしかなかった。それとして振る舞い、骨の髄までその役割に徹し、機能することを彼らは俺に求めていただけだった。

 生身の俺など、他者にとってはまるで問題ではなく、その意味において俺は親をはじめとしたあらゆる人間からないがしろにされてきた。俺が人間を好きになれなかったのは、それも大きな理由であったと言える。両親だけでなく、此の世のありとあらゆる人間関係というのは、煎じ詰めれば単にある役割や記号として機能しているかどうかだけが重要で、それ以外はどうでも良かった。

 それについて俺は、どんな時においても意識せざるを得ず、それが嫌だった。他人が設定したハードル超えるよう、俺は常に要求された。そしてそれは実存的な存在としての俺ではなく、相手が求めている役目やアイコンとしての存在として機能せよ、という指図や命令でしかなかった。そして俺がそれを完遂できない時、他人は俺に情け容赦なかった。両親でさえ。

 それが何より気に入らず、いけ好かなかった。だから俺は人間の営みというものを理解することができず、人間という生き物がどうしても好きになれなかった。だが、他人を記号としてしか見ず、己の都合や勝手に則って動き機能することを求めるのは俺もまた同じだったように思う。俺は他社というものを実存的な存在として、一度でも見なしたことがあっただろうか。

 己のそのような性質も含めてやはり、俺は人間が嫌いだった。ありのまま肯定されるなど、自他ともに到底ありえないという動かしようがない現実。それについて目を背ければ、それができたなら、世間というものに幻滅せずに生きられただろう。現に世の中のほとんど全ての普通の人間なるものは、それを当然のこととして社会生活を営んでいる。そんなことはできて当たり前だ。

 それができないから、俺は社会というものに適応することが能わなかったのだ。感じなくてもいいことを感じ、考えなくてもいいことを考え、見なくてもいいものを見てしまう。そのような己の気質というものを、俺はつくづく因果なものだと思う。それで何か得をするというならまだ救いはあったかもしれないが。それは単に生きる上での足枷にしかなっていない。少なくとも現状においては。

自分自身に

 他人も自分も、人間もそれ以外の生き物も、俺はどうしても好きになれず、嫌うしかなかった。それらの全てから逃れるためには、とどのつまり死ぬしかない。死が全てを解決する、人間がいなければ問題は起こらない。逆に言えば、生きている限り、あらゆる問題が常に惹起し続ける。それらの全てから解放されるには、生き物であることをやめるしかないのだ。

 死ぬことで全てを終わらせられ、煩わしく呪わしい忌むべき全てから遠ざかることが可能となる。そのように考えれば、まさしく死こそが俺にとって救済であり解放であるということができるだろう。そして何より嬉しいことに、俺が永遠に死なない可能性は皆無である。遅いか早いかだけの話で、俺の救済、俺の解放は既に確定しているのだから、何に対しても気が楽になる。

 ただ、綺麗に死にたいと、最近はそう思うようになった。人間がこの世に産まれ落ちてきて、成さなければならないことはただ一つ、「よく死ぬ」ことだけだ。そのことに思い至るためだけに、俺の人生はあったのだと、今となっては確信をもって宣言することができる。何を為し誰と会い、何を感じ何を思うかなど、枝葉末節のどうでもいいことでしかなかったのだ。

 しかし、よく死ぬなどと簡単に言っても、それを実践し、完遂することは決して容易くはないだろう。それは苦しみ、惨めな気持ちで野垂れ死にするような、そんな死に方では断じてない。今わの際を人並みに、穏やか且つ安らかな心持ちでもって死に臨むには、生きている間に多くを為さなければならないだろう。畳の上で死ぬとまではいかないまでも、悲惨な死に方をしないためには、それなりの身の処し方をすべきで、それが何かは普通に考えれば分かることだ。

 人生とは死ぬためにある。人間は死ぬために生きているのであり、死んだ人間だけが完全なのだと言える。誰の何が気に入らないだのなんだのと、くだらない戯言を言っ足り書いたりしている暇があるならば、死に臨むために備えを行うべきだろう。どのように生きるべきかなどと、青臭く的外れなことで悩んだり苦しんだりしていた時期など、当の昔に過ぎ去って、今の俺にあるのは己の死にざまを飾ることだけ。

 人間とは醜く身勝手きわまりなく、そして不完全すぎる存在である。しかし、そんな度し難い存在にも、死はもれなく訪れる。人間にとって重要なのはそれに対して一生を費やして向き合うことだけだ。そう考えれば、人としての生とはなんと、単純なものだろうか。それに対して余計な言葉や考えを差し挟む余地などまるでない。ましてや個人的に接してきた人間の心根など、全く問題にもなりはしない。

 死というものが持つ、この崇高さと絶対性に、惹かれない者は単に物事の良し悪しが分からない無粋の徒である。死が忌まわしいだとか、恐ろしいだなどというのは、全くもって見当違いも甚だしい。俺はもし自分が死ななかったら、と考えることがある。それは夢想するだけで救いがなく、恐ろしいと感じる。どんな人間も産まれてきたら、ただ死ぬだけ、これほどまでに希望に満ち溢れたことが、果たして此の世にあるだろうか。