壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

思い煩うな

 俺の胸中にあるのは不安と焦燥と、後悔と絶望だけだ。後ろ向きで鬱々とした感情だけが俺の生活の全てを覆い尽くしている。真綿で首を絞められるような窮屈さを覚える。また、自分を取り巻いている世界が音を立てずに狭まって、じわじわ押しつぶされていくような感覚を味わわされる。それは俺が低賃金で他人に雇われ、働かされているからだ。何の心配も気苦労もなく暮らせるようにならないから終生、俺は満たされも安らげもしない。

 

労働中に

 仕事をしている時に気がかりなのは、その日における作業を首尾よく終えられるかよりも、むしろ明日や明後日、来週や来月における懸案材料の方だ。今日という日を乗り切っても、次の日にはもっと面倒なことがたくさんあるのではないか、起こるのではないかと、未来に関わることばかりが心憂く思えてならない。一日を終えても、夜が明ければすぐに次のことにかかずらわされる。

 俺は日雇いやスポット派遣の人間が、ふと羨ましくなることがある。どんな仕事もその日の内に全てケリがつき、あらゆる人間関係が最短一日でリセットされるような、そんな身の上が。明日や明後日の仕事について、アレコレ考えずに済むなら、どれだけ気楽な心持ちだろうか。生活が不安定で、将来がお先真っ暗であったとしても、正規雇用の仕事で被る気苦労と縁が切れるなら、それはそれで良いのかもしれない。

 心配事は多岐にわたる。発注した品物が本当に次の日に届くかどうか。出荷した商品の送り先に間違いがないかどうか。荷物を海外へ発送する時に使う送付状の残数は十分か。生産終了品に着いての報告が、戦法の担当者の神経を逆なでし、次の日にクレームの電話なりメールなりを寄越すのではないか。自分がやった仕事に不手際があったかもしれないし、他人に依頼した何かの作業を、受け持った人間がしくじり、その尻拭いをさせられるかもしれない。

 一度考え出せばキリがない。そもそもそれらの大半は杞憂であり、仮にそれが明日、実際に起きたとしてもどうのしようもないというわけではない。第一、仕事でどれだけやらかしたところで、物理的に首が飛ぶわけでもなければ前科者か何かになり社会的に抹殺されるわけでもない。単に社会の人間に責められたり社内で居づらくなるだけだ。それ以上の何かが起こるとしても、せいぜい解雇されるだけだ。

 一体俺は何をこれほど恐れているのだろう。焦燥や不安に駆られながら、俺は奇妙にも感じる。会社をクビにされたところで、そのまま即死するわけではない。職を失い収入がなくなれば生活には困るだろう。しかし、それで全てが終わるわけではない。職場における対人関係が悪化したり悪い評価をくだされたりしたところで、所詮は他人の集まりにすぎないのだから、そんなことはどうでも良いだろう。

 俺は仕事が好きではない。労働という行為それ自体が嫌いだということもあるが、それは別としても目下の会社が好きでない。やらされている仕事の内容もそうだし、社風にせよ他の従業員ひとりひとりにせよ、とにかく俺にとっては好ましくない。もし仮に、俺に今すぐ一生困らないほどの金が転がり込んできたら、その日の内に会社をバックレるだろう。

 仮に俺が勤勉で、従事している仕事を愛しているとしたら、仕事上の結果の良し悪しは重大かつ大切だと言える。働くことが俺にとって価値がある何者かであったなら、それで不手際に見舞われたり評価を残ったりするのはマズい。しかし実際には層ではないのだから、俺は一体なにを怯えているのだろうか。よくよく考えていみると、他人が作った会社に金で雇われているだけの身だ。単にそれ以上でもそれ未満でもない。

明日があるさ

 次の日の仕事について色々と思うことは多々ある。商品の受注が多いかもしれない。嫌な客からの電話を取らされるかもしれない。社長や上役に何の意味も正当性もないようなことでネチネチと責められ、理不尽を被らされるかもしれない。もしも俺に、明日という日が来なかったなら、それらの一切は考えなくていいことだ。この夜で俺の寿命が尽きるなら、会社のことで悩む必要はない。

 現実には俺の命はまだまだ尽きない。 明日も明後日も明々後日も俺にはある。そのことについて思うと、それだけでウンザリとした気持ちにさせられる。攻めて例の職場での仕事が、今日で最後だったなら、そこでのことで思い煩うことなど絶対に有りはしないだろう。言うまでもなく、次の日には次の日のことがあり、その一部は家の中でも想像が届いていしまうような代物だ。

 さらに悪いことに、まだ月曜の夜である。今日を終えても、金曜の夜まであと4日間も働かなければならない。それまで仕事が終わったあとにも、次の日のことで気を揉む夜を過ごさなければならない。それが杞憂であり、仮に現実のものとなったとしても、それについて何かを感じる必要はないと先に述べたが、それでも心情的にはやはり万事ツツガナク済んで欲しいものだ。

 職を転々とするよりは、一つの職場に居続けた方が生活は安定する。収入が一定である方がストレスなく生きられるから、気に食わないことが多少あったとしても、今の仕事に甘んじている方がいい。そのように考えれば、職場において立場が悪化するようなことはやはり避けなければならない。先ほど書いたことと完全に矛盾するが、やはり暮らしを保つためには面倒が少ない方がいい。

 それにしても、明日がなければどれだけ気楽だろう。俺に明日がなかったら、職業や収入を安定させるために云々など、考える必要もないものを。よく、歳をとったら自分はどうなるのだろうか、などといったことをアテもなく考えてしまう。その度に俺は暗い気持ちになるのだが、俺にとっては死ぬことよりも惨めに無意味に、醜く老いさらばえていく未来の方が余程おぞましく思えてならない。

 貧しいまま、他人に扱き使われて一つまた一つ、歳を重ねていくことは耐え難い。そんな思いをさせられるのは、他でもなく俺に明日があるからだ。ひもじさや虚しさを伴った未来に見舞われかねないから、生きるということはシビアかつシリアスにならざるをえない。たとえ腕や足が千切れたり、目や耳が潰れたりしたとしても、明日がなければそれさえも、お笑い草になるかもしれない。

 血も涙もなく夜は開けて、季節はめぐり暦は進んでいく。それは全く無慈悲であり、情けも容赦もありゃしない。一日一日をどうやってやり過ごすかで、ただそれだけのことで日々、汲々としなければならない。気楽に、適当に暮らせるような身分に生まれなかったことが、歳を重ねるほどに悔やまれる。シリアスな感情から解かれたいと、いくら願っても状況がそれを決して許しはしない。

 

 暮らしに窮した惨めな自分を思い浮かべれば、仕事が上手くいかないことへの懸念は、ひとしお強まってしまう。空腹に苦しみ、寒さに耐え忍ぶような生活は、どのような言葉や理屈をもってしても、美化も正当化もできず、またすべきではない。貧しく、足りないということは単なる不幸でしかなく、それを良いことだとするのは却って悪徳だと俺は思っている。

 その悪徳から僅かでも遠ざかるために、誰もがやりたくもない仕事を嫌々やっていて、それに拠って成り立っているのが社会というものなのだろう。正当な対価を得て、望ましい職に就く人間が、この国に一体どれくらい居るだろうか。仮にそれがどれだけ大勢いたとしても、俺にはそんなことは何の意味もない。なぜなら俺自身がそれではないのだから、他人の幸運や幸福など無価値だ。

 目下、俺が働かされている職場において、賃金は同世代の平均を遥かに下回る。毎月の手取りが具体的にいくらか、そんなことは他人にはとても明かすことはできない。その雀の涙ほどの薄給でもって生活費の全てを賄わなければならない。そのため毎月毎月、俺は預金通帳に載っている数字に全神経を集中させることになる。実入りが増えないのだから、如何に出費を抑えるかの勝負だ。

 給料日が25日で、マンションの家賃の支払いがその5日ほど前だ。給料が口座に振り込まれると俺は、通帳の記帳を行うが、その時に家賃を振り込んで残った分の残金を知ることになる。大体、マンションの月々の支払いだけで給料の3分の1に相当する。更にそれから公共料金やら税金やらが引かれる。ダメ押しで食費なども残りの金から出さなければならないのだから、最終的に手元に残るのは本当に幾ばくかの金だ。

 今日が16日だから、あと10日ほど凌げば給料日となる。例の「幾ばくか」を一円でも多くするために、俺は毎日の食費を出来る限る切り詰めて生活している。電気代やガス代についても同様で、一円でも無駄にしないようにと最新の注意を払いつつ生活を営んでいる有り様だ。何という貧乏性だろうか。明日、来週、来月のために生身を置く一日を極めて窮屈なものにしている。

 明日がなければ、そんな吝嗇とは無縁だろうに。好き放題に飲み食いできるだろうし、エアコンもガスコンロも使い放題、湯も沸かし放題だ。そんな日が一日でもあったなら、俺はどれだけ満ち足りた気持ちになれるだろうか。明日を見越さなければならず、しかもそれが厳しいことこの上ないからそれは叶わぬ望みだが。生きている限り、現在の暮らしぶりが好転しない限り、吝嗇は免れない。

 明日など俺にとっては、ただただ重苦しい。どれだけ金を稼ぎ、またどれだけそれを使わずに済ませるか。そのことに囚われ続け、いたずらに消耗し続けるだけの生活が、死ぬまで延々と続いていくだけだ。我慢や辛抱に終りがあるならまだマシだが、それを迎える日は少なくとも、現状の生活における延長線上には絶対にないと言い切れる。貧困や窮乏を前提とした人生しか、俺には許されていない。

一日分だけで

 大昔、人間が背負う苦労はその日一日分だけで十分だなどと、フザケたことを抜かす輩がいたのだという。有名すぎるフレーズではあるが、現実にその通りの心持ちで生活できる人間が、果たして此の世にどれくらい居るのだろう。鳥や草には明日の心配事などないのだから、それと同じようにせよ、などと。本音を言うなら、俺だってそう出来るならそうしたいが、それは机上の空論でしかない。

 一日という区切りの中だけで、あらゆる全てが完結させられるなら、此の世はきっと極楽だろう。聖書に書いてある通り、全てを上に委ねてしまえるなら、その方が良いのだろう。また、別の宗教になってしまうが、自力よりも他力の方が大きく、後者は前者を圧倒する。意識的に出来る範囲の工夫だの努力だのよりも、超越的な思考の一者に帰依し、それに全てを任せてしまうくらいで丁度いいのかもしれない。

 そんなことは重々承知ではあるが、やはり明日を憂わずして、俺の生活は成り立たない。理想を言えば、世間ずれした、みみっちい暮らしから、抜け出せるなら今すぐにでもそうしたい。しかし、それはとてつもない贅沢というものだ。俺の両親は常に明日を、未来を憂うように、焦るように、そして悔やみ惜しむようにと、俺を仕込んだ。それは世知辛い教育であった。

 その指針について、間違いだと俺は思わない。下層階級においては、そのような生き方を手放せば、即ちそれはそのまま破滅を意味する。俺がもし金遣いが荒く、また月々の収支さえ計算できないような人間だったら、俺は今以上に悲惨な目に遭っていただろう。明日を煩うから、俺はこの程度で済んでいるとも言える。それはまさしく、社会の最底辺で行き続けるための処世の術が、俺に備わっていることを表している。

 人生を、生活を、そして己の生命を守るための嗅覚と本能を俺は徹底的に叩き込まれた。両親が俺に施した躾や教育の全ては、生きるという単純にして明快な目標を達するためのものであった。しかしそれを成すために俺は、心を穏やかにすることも能わず、何かにつけて怯え、憂い、恐れるようになった。そのようにならざるを得なかった。身を置いている環境や状況などといったものが、俺をそのようにさせてきた。

 気が休まらないまま他人に使われ続けても、せいぜいギリギリ、ホームレスにならない程度の暮らししか送れない。そんなものに、一体どれほどの値打ちのがあるというのか。生活の破綻や破滅を恐れながらも、それを免れている日常に価値を見出すことができず、俺は進むのにも退くにも二の足を踏む。有閑階級には終生、理解できないような浅ましい葛藤が俺の人生には絶え間なく付いて回る。

 明日の心配をしなくていい星の下に生まれてこられなかったのが、そもそも運の尽きだろう。心憂いままで地獄のような日々を過ごすしか道がないのだから、諦めるより他はない。俺はキリストでもなければ親鸞でもない。悟り澄まして生きるには、あまりにも卑しすぎる。現実や日常という重苦しく、行き詰まるような語句で言い表わせる低次元の世界で、生きていかなければならないことを、ひたすらに懊悩し呻吟し、悲嘆に暮れるしかない。