壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

瞬間、心、重ねない

 他人の気持ちが分からない奴はダメだと世間では良く言われる。俺にはそもそもその言説の正当性を疑わしく思う。特定のとある人間の気持ちだの気分だのに対して、他者がアレコレと気を配らなければならないなどと、余人は本気で思っているのだろうか。個人的な思いや考えなどといったものを、余りにも高く見積もりすぎているから、世間という場所は重苦し居場所になるのだ。

 

悪意の価値は

 俺はお前を見下しているんだ、バカにしているんだぞ、と表明したがる人間の気持ちなど、俺はには永遠に理解できないだろう。そんなことを一々、言葉や態度に表すことに、一体どんな、何の意味があるんだろうと、俺は憤りよりも奇怪さの方を強く感じる。ネット上でも実社会でも、そんなことを逐一隠しもせずに開陳したがる人間の精神構造に、却って興味津々である。

 単にその手の念を向けられる俺がナメられているだけだと言ってしまえばそれで話は終わってしまう。しかし、俺をナメるのは当人の勝手だが、それを俺に目に見えて分かる形で伝えて、何がどうなるというのか。見下してやった、蔑んでやった、嘲ってやったぞと、憂さが晴れて満ち足りた気持ちになるのだろうか。どこまでもその者の勝手にすればいいだけのことだが、虚しくないのだろうか。

 長い歳月を生きてきたが、俺は他者が持つこの手の「気持ち」が皆目見当もつかない。他人に危害を加えたり何らかの形で損害を与えたりすることにより、己に利する何かがあるというなら話は別だ。俺に害意や悪意といった類いの感情を吐露することで、何も得をしないだろうに、一々それを言いたがりやりたがる人間の心理を、俺は絶対に理解できないだろうし、したくもない。

 かく言う俺も、その手の下卑た情動を全く抱かないということもない。しかし、そんな念が頭に浮かんだ時、それと同じくして虚しく、また恥ずかしいという思いも伴って現れるのが常だ。こいつは俺よりも劣っていて、叩いていい相手だ、自分にはそれが許されるのだと確信し、それを実行に移すとして、その時にその行為者としての己自身を貶める結果になると、思い至るから俺は結局何も表明も行動もしない。

 余人の大半はそうではないということを、俺は身をもって知っている。醜く浅ましく、それでいて下らない精神を一々吐露してくる人間が世間にあまりに多いので、俺は心の底から辟易させられる。自分よりも下だとか、劣っておりだとかと値踏みして、軽はずみに貶したり侮ったりして、そもそも疲れないのだろうか。それで一円でも金になるなら、理屈としては分かるのだが。

 結局、その手の御仁というのは自分の気持ちが此の世で最も尊いのだろう。損得も善悪も、己の満足のためには霞んでしまう、そんな精神性の持ち主だと見なすべきだ。俺は心底、そういった手合いとは接したくない。心、それも自分自身のそれを何よりも重んずるという考えは、途轍もなく了見が狭く、ハッキリ言って幼稚きわまりない。そして世間というものはそんな者どもの集まりなのだから、絶望せざるを得ない。

 また、他ならぬ自分が、劣等と見なした相手に侮蔑や嘲弄の意思表明を行えば、その対象が何らかの打撃を被ると確信しているのも噴飯物だ。他者を「バカにする」時、その行為者は無条件に対象者よりも価値があるという前提を踏まえて発言することになる。それが盤石で揺るぎなく、バカにされている側がその前提なるものを自明で疑いようのないものとして受け入れると、本気で思っているのだから笑わせる。こちらから言わせれば、お前ごときにどう思われようが知ったことではないと、見栄を切ってやりたくもなる。

取り合わない

 たとえどれだけ誹謗中傷され、辱められたとしても、それらに対して何かを思ったり感じたりする義務などない。他人の心だの気持ちだのと言ったものに対しては、意に介さずに済ますという手段も取れる。それは別に悪事でもなければ知性や良識の欠如でもない。思えば俺は、誰から構わず他人の意図や考えを逐一汲んでいたような感がある。特にこれと言った意味もなく。

 相手のことを分かるということは、人間として絶対に欠かしてはならないことではない。意を汲むにも、相手を選ぶべきだろう。自分の気持ち()に無条件に価値があると思い込んでいるような連中について、俺は慮ってやる義務などないと確信している。付け加えれば、俺は生きて居る人間には皆、等しく価値などないとさえ、思っている。ましてや浅はかで幼稚な人種など、言うに及ばず。

 人間の精神や、個人が持つ心といったもの、及び感情や思いなどとについて、どこまで重んずるべきだろうか。たとえどれだけ貴い身分の御仁であったとしても、そもそも人間の気持ちなるものを、それほど大切にしなければならないのか、俺には甚だ疑問である。ある一人の人間の気持ちのために右往左往したところで、それで餓えや寒さがを凌げるというのか。一円でも何かの足しになるというのか。

 自分の気持ちが、金や物質的な恩恵よりも優先されると信じている厚顔無恥な輩。そんな連中が存在し、肩で風を切りながら此の世を我が物顔で渡り歩いている現実を思うと、ただただ虫酸が走る。手前勝手な気分やそれに基づいた言動により、他人が痛めつけられたり損害を被ったりさせられると考えるのは、単なる自惚れでしかない。そんな魂胆を臆面もなく表に出せるような人間に、なぜ俺が気を配らなければならないというのだろうか。

 適当にあしらい、何も思わずにその者自体を端から存在しないものとして扱えばいい。それは己が被ったことを見なかったこと、なかったことにするのではなく、それが為したり言ったりしてくることに対し、精神を影響されないようにするということだ。抱かれ、また表される悪意や害意といったものについて、律儀に反応する必要も義務もないというのは言い過ぎるということはない。

 加害に対して報復するのもまた正しくない。他人の情動を読み取り、それに則り定石どおりの反応をした時点で既に相手に呑まれていると言っていい。そのような下衆の思考や言動に対して、全く心が動じなくなってはじめて、俺はそれに対して勝利を収めたと言えるのだ。要するに、他人の心を如何に汲まないか、また察しないかであり、別の言い方をすればどれだけ空気を読まないかだ。

 あらゆる人間関係において、否が応でも伝わってしまう、分かってしまう、推し量れてしまう。それらの全てが時に苦しみの源となる。何も察することができない人間は、その点で見ればこの上なく幸福だと言ってしまって構わないのかもしれない。必要もないことが嫌でも分かってしまい、覗き見たくもない本音が見透かせてしまう時、俺は自他の別なく、人間というものがつくづく嫌になる。

 

 他人の気持ちなど分かって何になるというのか。意を汲まなければならないような人間が、この世の中に一体どれくらい存在しているというのか。目の前に存在している他者が、慮らなければならない程の人物である可能性は、果たしてどれくらいだろうか。世間における有象無象など一顧にも値しないような事物に過ぎないと、言い切ってしまったとして、それに一体どんな問題があるというのだろうか。値踏みなどするまでもなく目下、生きている人間なんぞに、大した価値はないと決めてかかったとして。

 生きているという時点で、尊敬には値しない。優劣も善悪も貴賤も、生きているという、ただそれだけの前には霞んでしまう、俺にとっては。とどのつまり、食って寝て糞をしているだけの存在でしかない、生き物は。それの中で、価値があるだの優れているだのと評することは、ナンセンス以外の何物でもない。本当に尊い存在とは、既に此の世を去った者だけだ。

 生きながらにして、他人から褒めそやされ、敬われたいなどとは何たることか。他社に対して、コイツは自分よりも格下で、劣っているから、コイツごときは俺を崇敬して当然だ、などと臆面もなく思える人間が、俺には全く理解不能である。浅ましくそして、おぞましいとさえ思う。そしてそれらを越えて、滑稽でさえある。どれだけ見下せる者が相手であったとしても。

 だが、その手の御仁が世間には溢れかえっているのは恐ろしい。社会生活というものが、俺にとって物憂く思えるのは偏に、この一点によるものである。言ってしまえば身の程知らずもいいところだ。自分というものを、無条件で価値があり、大切で、自分が下に見たものからは敬われたり重んじられたりするのが当然だと思っているのだから。それが世間のマジョリティなのではないかと思うと、俺はとたんに恐ろしくなる。

 実は、俺を避けるなと、ある男からシツコク付きまとわれたことがある。その男はかつて存在した会社における俺の先輩社員であった。会社がある間、その男は俺を小文化召使のように扱い、公私の別なく使役したものだ。俺が単に言いなりになるだけでは彼は満足しなかった。例の男は俺の精神まで操作しようと企んだが、俺はそのようにはならなかった。面従腹背では満足できないその先輩社員は、俺に慕われたがり、また尊敬されたがった。

 それらの念を自分が相手(つまり俺)から抱かれて当然だと思える厚顔無恥さ。その性質が発揮されたのは会社が健在だった頃ではなく、むしろそれが無くなってからだった。会社が潰れてからもその男は俺の「先輩」であろうとした。俺はその男といつまでも繋がりが切れない存在だと彼自身は認識していたようで、延々と電話をかけてくるのだからたまったものではなかった。

 その男のケータイの番号を着信拒否すれば、別のケータイを使って俺に電話をかけ、俺の不義理を責めながら脅した。お前は引っ越しはしたのか、俺から逃げられると思うな、俺は逃げれば追う男だ、などと喚き散らして。会社があった時点においても、俺は先輩社員に虐使されながらも、それの気持ちなど全く理解できなかったし、会社がなくなってからもしつこく複数のケータイを使い分けて脅迫電話をかけてくる段に至っては、分からないを通り越してただ恐ろしかった。

朴念仁

 今勤めている会社の社長も、例の「先輩」と本質的には変わらない。自分が他人、と言うよりも自分が下に見ている相手から尊敬されてしかるべきと考えている人種。世間を見渡して見れば、その手の者どもがどこにでも居る。そしてさらに悪いことに、それは組織や集団の中ではそれなりの地位を占めているような傾向され見られる。自惚れが強い人間に限って社会的に成功を収めるのかもしれない。

 そんな手合いの気持ちが分からないのは能力の欠如でも人間性の欠落でも何でもない。そんな精神構造や人格を持っている人間のほうがおかしいのだ。そして付け加えて言えば、そんな輩が除かれずに当たり前のように生きられるようなこの国やこの社会の方が間違っており、狂っているのだと言える。この国のすべての人間にとって、俺は「足りない」としても、俺はそれを恥だともなんとも思わないし、また思うべきではない。

 他人の気持ちなど分からないくらいでいい。むしろ、自分の気持ちを汲めだの察しろなどと無理強いをしてくるような人種の心など、そもそも一顧だに値しない。そしてそんな連中は社会のどこにでも生息しているのだから、俺は世間というものに対しては、もう積極的に関わりたくない。俺はどうしても、社会には適さないタイプなのだろう。そもそも例の男のような人間が真人間として通用するような社会には。

 他人の心がわからないとEQが低いだの発達障害だのと言われる。俺は以前、前述の男とはまた別の人間に、これまた面と向かってアスペルガー症候群だのと勝手に診断されたことがある。その男の精神を満足させられないから、その男は俺のことを病人だと言ってきたわけだ。その男がこの世にいるかどうかさえ俺には知る由もないが俺は言い返してやりたい。そんな発言を無遠慮に行ってくるような人間の気持ちなど配慮する価値がそもそもないと。

 自分の心だの気持ちだのといったものに、慮られる値打ちがあると信じる者は、呪われよ。それは全く妥当でも正当でもない。単なる自己愛や自惚れに発露でしかない感情のために、他人の肉体はおろか精神までも手前勝手に操作しようとし、それが能わ泣けば傲慢にも憤る者どもに、どうか災いがあらんことを。自分という存在に普遍的な価値があると、思い込んで生きているような不届き者は、死ぬべきである。

 他人の気持ちに右往左往してきた俺の人生は、何だったのだろうか。俺の気苦労の全てには、道端の石ころ一つほどの価値もなかったのだと思うと、無性に笑えてくる。自分の心や気持ち、あるいは気分のために憤る者どもの言動など、単なる傲慢さや身勝手さの発露でしかなかった。そんなもののために、俺は恐れたり憂いたりしていたのだ。そんなもののために、俺は自分の一生を棒に振ったのだ。