壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

次の日

 大抵の正規労働者にとって、日曜の夜は好ましくないだろう。月曜日の仕事は平日におけるナカビのそれとは、全く異なった趣をもって、労働者には感じられる。言ってしまえば月曜なんて、職場に閉じ込められて使役される一週間の始まりだ。それが目と鼻の先まで迫っている、そんな夜を楽しく過ごせる人間は恐らくこの世にいないだろう。俺もまたそんな有象無象の一人として、この日曜日を過ごしている。

 

日曜の夜

 日曜日の晩は、生きた心地がしない。月曜日のことを考えてしまうからだ。土曜日と日曜日の二日間を休み、その翌日から5日間、フルタイムで労働しなければならないことを思えば。火曜日や水曜日も次の日に仕事があるは同じだが、休んだ日から臨む労働をしなければならない明日は平日におけるそれとは、全く異なった感がある。もう明日は休みではないと改めて思うと、それだけで気が重くなる。

 休日を有効に活用できなかった、という思いがまず最初に来る。もっとマシな土曜日や日曜日を送れたのではないか、という後悔の念が俺の精神を支配する。眠りすぎて大したことができず、時間を無駄にしてしまった。土曜の夜に奮発して晩酌でもすればよかった。日曜日の明るいうちに、日課のブログの更新を済ませてしまい、夜は優雅に過ごすべきだった、など。

 翌朝を思えば一層、気は沈む。まさに今、台風に見舞われている。朝に雨が上がるかどうか、それとも台風の真っ只中か、判然としない。大雨なら電車のダイヤが乱れるから、もしかしたら遅刻するかもしれない。出勤時間が遅れたら、その分給料を減らされる恐れもある。天候が悪化すれば、先週の金曜日に発注した荷物を運送会社が届けに来る時間が遅れ、仕事全体に支障をきたすかもしれない。

 気がかりなことはまだある。土日で発注が途轍もない量溜まっている。得意先のうちで、365日営業しているところがあり、そこが送りつけてくる発注書は一年中途絶えることがない。月曜日にはまず、それを捌くことから始めなければならない。他の得意先も、土日に休んでいてもその分をまとめて月曜日に発注してくるから、月曜日は一週間で最も仕事の量が多い日なのだ。

 今はまだ休んでいられるが、それもそう長くはない。そのことについて考えると、まるで気分は死刑執行を待つ罪人のようだ。朝にノコノコ職場に出かけて、酷い目に遭わされるのは明らかであるにもかかわらず、俺はなぜ働きに出なければならないのか。その答えは単に生活の維持である。そんなことは言うまでもないが、他に何かや利用があるのではないか、と現実逃避したくなる。

 しかし結局、俺は出勤せざるを得ない。明日は台風で、ただでさえ憂鬱な月曜日がヒトシオ辛いのだからたまらない。仮病か何かを使って、休んでしまいたいくらいだ。だが仮にそんなことをしたら、日割で給料を減らされてしまう職場であるため、結局そんな思いつきも即否定せざるを得ない。窓外の雨音を聞きながら、俺は明日の出勤の苦労を思い浮かべ、一人で鬱々とするしかない。

 月曜日の天気がどうであれ、例外なく日曜日は物憂い。改めて考えると、一週間のうち5日も他人のために働いているのだからバカバカしいを通り越し、我ながら哀れこの上ない。時間というものが有限であり、また体の自由が利き、感覚が鋭敏な状態というのは、生きていられる時間における全てを占めるわけではない。そう思えば、なぜ他人のためにハシタ金と引き換えに、労働力を提供できるのだろうか、正気の沙汰ではない。

仕事は楽しいかね

 などと言ったところで、不労所得者でもない限り労働からは逃れられない。職場や仕事について、どれだけ嫌ったところで俺は、それらから自由にはなれない。そしてそんなことは、生まれた瞬間から決まっていたことだ。そう考えれば、人生というものはなんとも、つまらないものだ。個人の努力や選択などは結局、大勢には大きく作用しない。これは頑張らなかったとか努力が足りなかったという話ではない。ある個人がどのような生を送るかは、産まれ落ちた日に殆ど決まっている。

 親が勝ち組だったら、卑しく割に合わない仕事になど天地がひっくり返っても就くまい。俺が会社に就職し、フルタイム労働をしなければならないのは、そもそもそういう階級に産まれてきたからだ。極端な話、それ以外に理由など一切ない。第一、俺は労働者になるために躾けられ、そのための教育を施されてきた。そんな俺が働きたくないなどと、思ったり感じたりする時点で「間違い」と言えるだろう。

 元来、俺は労働に不向きだった。そしてそれは、どんな悪事よりも罪が重かった。なぜなら俺は他人の下で働く人間として産み出され、そのために教育を受けてきたのに、それを身勝手極まりない願望や都合により、それを潔しとしなかったからだ。イヤイヤ働くとしても、それでも俺は罪人だった。使役されることに納得し、満足し、それを喜びとしない限り、俺という存在が許容ないし肯定されることは有り得なかった。

 他人に雇われずに生きていくため必要なことを、俺は一つも学ばなかった。また、そのために何をすればいいか、己の力で会得することも能わなかった。その結果として、底辺労働者として毎日のように働かされるだけの暮らしがある。改めて考えれば、そこには一切の矛盾も理不尽もない。いまの生活、ひいては俺の人生そのものは、なるべくしてなっていると、言うしかない。

 それに対して不服に感じ、文句を抱くとしたらそれは、なんと反社会的だろうか。俺のそういった性質について、両親はいつも危惧していた。彼らは俺が高校生のうちから労働を強要し、俺に働くことを覚えさせようとした。学校で学問をしたり遊んだりするよりも、それは俺にとって遥かに重要な事だとされた。働け、ただそれだけを両親は俺に言いたかったのだろう。

 それは俺にとって全く役立たなかったわけではなく、むしろ逆だ。一応労働に従事し、自活できる能力は現状において有しているが、それは両親の教育のタマモノである。俺は社会的な存在として一応は通用しているといえるだろう。犯罪をしでかしたり、ニートになったりはしていないのだから。むしろ勤労に従事し、税金や年金を支払っているのだから国民としては申し分ない存在だ。

 だがそれで、ただそれだけで、俺は良しとするべきなのだろうか。他人に利用されずに毎日を送れるような、そんな生活は決して有り得ず、夢見ることさえできないのだろうか。そしてそうだとしたら、それを嘆いたり憤ったりすることは許されないのだろうか。また、その手の感情や願望が、仮に許されないことだとしても、それらは俺にとって絶対に不可能な精神的な活動なのだろうか。

 

 ニートや穀潰しが一般的に悪いことだとされるのは、それが反社会的だからだ。そして、反社会的とは盗むだとか殺すだとかいったこととは全く別種なものである。金が欲しいから盗むだとか、自分を苦しめる相手を殺すだとか言った行為は全て、社会的な行為でしかない。反社会的な行為とは、望まず欲さず、どんな相手に対しても憎みも恨みもせず、単に何もしない状態を指す。

 どんな種類の労働であっても、それに従事する限りその人間は社会的な存在にほかならない。俺はかつて、ネット上で詐欺の片棒をかつぐ悪徳企業の従業員として働いていたことがある。俺は自分でやっていることが、誰の役にも立っていないと感じ、はだただ恥ずかしかった。クライアントのどれもがカタギではなく、その会社が何らかのアクションを起こせば起こすほど、損をする不幸な人間が増えるのは明らかった。

 しかし、そんな会社で働くことさえ、今にして思えば社会的ではあった。他人を騙し、金を巻き上げ、損をさせるだけの行為であっても、企業活動である以上は経済をキチンと回している。社会に参加し、社会通念に則った考えを持ちそれに基づいて行動をしている限り、どんな悪徳も不義理も社会的な行為だ。俺は、そんな社会なるものに適応できず、結局どこでどんな仕事をしていても順応できなかった。

 今の仕事は別にそういった類いの職業ではない。卑しい仕事ではあっても、一応誰かの役には立ってはいるのだと、胸を張って言うことはできる。しかし、俺はそれでも嫌だった。俺は誰の役にも立ちたくなく、また誰かを害して己が得をしたいという欲も、それほど強くはなかった。そして、そのような性質は社会というものに最も適わないものであり、俺はこの世の全方向位から糾弾されることとなった。

 たとえ一人殺しても、百万人が幸せになればそれは善である。社会とはそういうものであり、百万のために一人を犠牲にできないなら、そうしたくないならそれは、紛れもない悪なのだ。死ぬの殺すのという例え話はあまりにも極端すぎるとしても、要するに人間という存在は、プラクティカルでなければならず、そうでなければ個人は全否定されるだけで、俺は他ならぬソレであった。

 働きたくなく、仕事が嫌いだなどと、口にも出すことさえ憚られる。月曜の仕事がキツくて憂鬱だなど、思うことさえ許されない。なぜなら俺は、働くために産まれ、育てられ、教育を施されてきたからだ。俺は労働力を社会に提供するためにだけに、とある女の腹から放り出された、ただソレだけの存在でしかない。にもかかわらず、それに異を唱えたりそれに喜びを感じないなら、それはどんなことがあっても許されはしないだろう。

 ある時、電話口で郷里の母に言われたことがある。「仕事楽しちゃあな?」と。それは標準的な日本語で言えば、仕事は楽しいか、くらいの意味合いの言葉だったのだが、俺はそれに色好い返事ができなかった。仕事など、これっぽっちも楽しくなく、職場の人間は一人残らず嫌いだったから。そんな俺に母親は激高し、その場で思いついたアリッタケの罵倒を俺に浴びせた。俺の返事はそれに値するほどの悪だったというわけだ。

遠くへ

 俺は遠くへ生きたかった。いま実は「行きたかった」と入力しようとして、変換ミスで生きたいとなってしまい、俺はそれにハッとさせられた。遠くとはどこだろうか、物理的な意味で言うところの「遠く」だとするなら、生きたいは単なる誤りに過ぎないが、それが単なる今ココからの距離ではない、もっと抽象的な意味での遠くなら「遠くへ生きたい」もあながち、間違いではなくなる。

 先ほど、社会的な振る舞いとしてプラクティカルな行為や思想を強要されるだの何だのといったことについて書いたが、それから逸脱した状態や行動を指して「遠く」という言葉を当てはめるとしたらどうか。俺は実利から離れた生き方を実践したいと、深層心理において、ずっと思ってきてそれが遠くへ生きたいという言葉として偶然、不意に出てきたのだとしたら、それは我ながら興味深い。

 生活の維持のために、社会的かつ肉体的に死なないために、結局は月曜日に働きに出ざるを得ない。そうせざるを得ないが、己の真の本願とでも言い表せる何かについて、絶対に失念してはならない。身体的には実利的な行為に及ぶしかなかったとしても、せめて精神の領域においては、人間は独立と自由を保たなければならないと、最近は特に思うようになってきた。

 嫌だだのやりたくないだのと言っても、やらなければならないことはゴマンとあるのが現実だ。それは個人としての人間を圧倒し、人生の大部分を支配し、命ある限り抑圧し続ける。だが、それから僅かでも離れられるなら、遠くに在ることができるなら、可能な限り人間はそうすべきだと思う。少なくとも俺はそうしたいと欲しているし、それはいまの暮らしを営みながらでもできるだろう。

 利得や損害といった概念から離れた状態や精神を持つことこそが、自由の本質なのかもしれない。俺は子供の頃から、自由とは単に思うままに振る舞うことだと思ってきた。俺の周りの人間は老若男女ほとんど全て、実際そのように考えていたかもしれない。自分にとって好ましいことだけをやり続けられる、自分が損をしない状態を永遠に維持できることが、自由なのだと愚かしくも浅はかに。

 自由とは理屈や実利といった概念から縁遠いところにある何かだ。それを俺は、無意識にせよ、ずっと欲してきたのかもしれない。仕事に行きたくないと一人、家の中でウジウジ考えている時、俺は単に会社を休んだりバックレたりしたいのではない。貯金を食いつぶして3か月しのぎ、あとはハロワから失業保険をもらって生きたいと、短絡的に望んでいるのでは、ないのだろう。

 経済的な理由でやりたくないことをしなければならない階級から脱したい。それが叶うことなど今生においては、もしかしたらないかもしれない。無意味で無駄なことに一生を費やせるほどの裕福さを、俺が得られる日が夢物語でありませんように。そんな願を掛けながら俺は、結局働きに行く支度をすることになるだろう。