壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

思うところ無し

 何も書くことがなくても俺は、書くという行為から離れる訳にはいかない。それは呼吸をしなければ生命を維持できないのと同じくらい、俺にとって避けることは能わないことだ。書くという行為が、有形無形の別なく、どんなことにも繋がらなかったとしても、俺はそれを辞めることができない。それにどれだけの手間や労力、苦しみが伴ったとしても、俺は意地でもそれから遠ざかる訳にはいかない。

 

仕事よりも

 仕事が終わって食事を済ませ、ブログに5000文字の文章を打ち込む作業に入る。実を言うと、家の外で働いている時間よりも、キーボードを叩いている時間の方が、いまの俺にとっては苦痛が大きく感じられる。どれだけ不本意で嫌な仕事であったとしても、それは手順を踏んでいけば消化できる。しかし、文章を作る作業は極端な話、手につかないときは何から書けば良いのか皆目見当がつかない。今日のような。

 身も蓋もないが、毎日書くことなどあるはずがない。平日は朝から夜まで働かされ、粗末な食事を摂って眠り、日付が変わり朝になれば入浴して出勤の支度をする。そしてまた出勤して職場においてその日の分の仕事を行う。土曜日なら文章学校で講義を受けてから国会図書館にいく。日曜日や祝祭日は千代田区か新宿区の図書館に赴き借りた本を返却し、予約した本を持って帰宅する。天気が良ければ借りた本を家に置いて再び外出し、広尾の都立図書館で夜まで読書して時間を潰す。

 目下、俺の生活は大体、例外なくこのような感じである。そんなルーチンワークを延々と繰り返しているだけの暮らしの中で、何かを言葉にしようという試み自体に、無理があると言わざるを得ない。休日はともかく、平日においては書くことはおろか思うことさえ何もない。なぜなら俺は、単に身も心も労働者でしかないからだ。働くことだけを考え、それ以外については感じることさえない。

 労働者として馴致、順応させられた俺には、文章を書くことさえ重労働だ。これを書きながら俺は、せめて身体的に少しでも被る負担を軽くしようと画策している。俺が使っているベッドは、脇に置いている机とだいたい同じくらいの高さであるため、その机にノートパソコンを置き横臥すれば、ベッドに寝たままパソコンを操作することが可能である。要するに、まさにいま俺は横に寝ながらキーボードを打っている。

 文章を作るという作業は、頭よりも体に負担がかかるということを、俺は長い文章を日常的に作るようになってから思い知った。同じ姿勢で手を動かし続け、大量の文字を入力するというただそれだけのことが、中々どうして大変なのだ。せいぜい数百字や線文字程度の量の文章ならともかく、三千、四千、その上五千文字を上回る分量の文章を一日も欠かすことなく生産するのは、少なくとも俺にとっては辛い作業であった。

 身を起こして文字を打つだけで体に少なからず負荷がかかる。そしてそれは俺にとって決して無視することができない。働いているだけでも毎日、疲労困憊であるにもかかわらず、こんな一円にもならない文章のために余計な時間や労力を費やさなければならないのだから、堪ったものではない。僅かでも疲れずに済ませるために、横になりながら文字を入力している。

 身体的に辛くても、書きたいことがあるならまだやりようはあるが、そうでないのだから問題である。先に触れたように、俺には書くことが全く無い。特に表現したいことも世に問いたい何かが有るわけでもない。そんな俺が文章教室に通ったりブログを更新する理由など、改めて考えてみると何一つありはしない。書くことがないから作業が一々滞り、無駄に時間を食うハメになる。

浮かばない

 次の日が休みならいくらでも時間を掛けられるが、平日なら言うまでもなくそうはいかない。平日において最も重要なのは、睡眠時間の確保だと言ってもいいくらいだ。そんな状況下にあって、ダラダラとブログの更新のために時間を浪費するわけには、どうしてもいかない。そうであれば、一秒でも早く5000字入力し終えたいのだが、全く書きたいことがないから、相当に難儀することになる。

 キーボードを打つ手が止まるたび、俺は焦燥に駆られる。一体全体、なぜこんな思いをしなければならないのかと。仕事でもなく、何らかの利益が有るわけでもない。単に文章力を落とさないようにするための習慣付けとしてやっているだけのことだ。しかし、それさえもおろそかにするようであれば、俺は労働以外には何かを行える可能性や余地が、一切ないということになってしまう。

 何も思い浮かばないから、今日は何も書かなくていい、というわけにはいかない。今日は何も書くことがないという趣旨の内容で、どうしても5000文字の文章を入力するよう、俺は自らに課している。それは全くの無駄骨であり、それをやったところで誰かに褒めてもらえるわけでもなければ、直接なにかに繋がっていくわけでもない。単に働きながら長い文章を作るだけの、本当にただそれだけのことだ。

 逆にそれさえもできないとしたら、俺は自らを見限るしかない。別に大層な名文を残すだとか、多くの人間の目に触れるような何かを書きたいだとかいう高いハードルを設定しているわけではない。単に毎日、最低5000字のまとまった文章を生産する能力を自身が持っていると、自分自身に言い聞かせ、それを確認したいだけだ。そんなことに難儀するようでは、俺は己の能力の低さに絶望するしかないということになってしまう。

 駄文を書き連ねる能力。このブログで俺が発揮し、確認したいのは本当にただそれだけのことである。最低限、日本語の散文でありさえすれば、内容などハナからどうでもいい。それくらいの気持ちで居ても、いざ書くとなると一筋縄ではいかないのだから不思議なものだ。何を書いても自由なはずなのに、それを咎めたり、やめさせようとする他人など唯の一人も居ないのに。

 支離滅裂の怪文書のような内容になったとしても、それによって俺の何かが損なわれるということもない。コイツはわけのわからないことを毎日毎日、飽きもせずに書いているなどと、誰かに批判されたり嘲笑されることもない。それでも俺はブログ程度の文章さえも、苦しみながら作らなければならないのだ。もしかしたら、文才だの文章力だのと言ったものなどが、俺には根本的に欠けているのかもしれない。

 できない、という事実の不愉快さに俺は直面させられる。だから冒頭で述べたように、俺にとって最早ブログを更新することは、職場に働きに出て従事する労働よりも、ずっと面倒で辛い作業として認識させられるのだ。自分が思っているよりも、全然書けないという事実。それも小説だのシナリオだのといった類いの創作ではなく、単なるブログでさえこの体たらくなのだから。

 

 自分がどの程度のものか、知ることは嬉しくも楽しくもない。たかがブログの更新さえ、自在にこなせないようでは、せっかく大枚をはたいて文章の学校に通っている甲斐がないというものだ。そこで色々学びはするが、そもそもの問題として俺は、文章を作るという行為それ自体が、全くもって得意でもなければ好きでもないのだという、不都合な事実がこのブログによって毎日、浮き彫りにさせられる。

 働いていないから、最低五千字の文章を毎日作るなど、誰にとっても造作も無いことだろう。自分がニートか学生であったなら、この手のことでこれほど頭を悩ませる事は恐らくなかったに違いない。ところが現実はそうではなく、俺は一週間のうちの殆どを労働のために費やしている。その合間に五千字を毎日書かなければならない。この作業量が与える心身への負担は、なかなかどうして筆舌に尽くしがないものだ。

 全くひねりも芸もないような内容の文章であっても、ただ単に生産するだけで骨が折れる。意味もなければ存在価値もないような散文を、ただただ毎日、愚直に作る続けるという苦行。その程度は造作も無いと見栄を切りたいが、俺にはそんな力さえもないのだと、最近は思い知らされる。本当に文才が有る人間、能力が高い人種というものは、無意味に何万文字でも毎日、余裕で作れるのだろう。

 自分がそうでないということを認めることは楽しくない。だから俺にとって、文章を書くという作業は当然、面白くもなんともない作業だということになる。文章教室に金を払って、勉強しようなどと思ったのは、つくづく身の程知らずだったと俺は、学校そのものとは何の関係もない局面で思わざるをえない。学校において講師に、毎日文章を書く時間を設けろとは言われたが、存在意義がないブログに毎日五千字の記事を更新し続けろ、などとは言われていない。

 学校のことで思い出したが、先週末に講師から出された課題がいつもよりもかなり難しいものだった。俺は翌月の5日までにそれを完成させなければならない。それを冠水させるために、色々考えたり調べたり、そして何より書かなければならないはずだ。それよりもブログを書くことを優先させているのだから、我ながら本末転倒だと思う。面倒な課題を終わらせる方が、先であるのは明らかなのに。

 課題にかかずらうのが嫌で、現実逃避でブログの方を優先させているところは有るかもしれない。仮にそうだとしたら、尚の事情けない。具体的に、どんな内容の課題が出たのか一々、事細かく書く気にはならないが、それは俺にとってかなり不得手とする領域に関わる代物であった。それさえも難なくこなせるくらいでなければならないはずなのに、俺はそれにも汲々とさせられている。

 文章教室やブログといったものに時間や労力を割くようになって、自分には文章を作る才能が全く無いという、ただそれだけが明確になっただけだった。それは俺にとって、かなり都合の悪い、目の当たりにしたくない現実だった。俺は心の何処かでは自惚れていたのだ。書くということに限って言えば、俺は他人よりは秀でたところが何かしら有るのだと信じていたかった。そんな幻想は、コンスタントに書かざるをえない状況に身を置くことにより、脆くも崩れ去った。

言語道断

 何の得にもならない文章教室もブログも、不意にやめてしまいたくなる。ブログにかかずらっている時間を別のことに使えるようになれば、俺の生活はどれだけ楽になるだろうかと、最近は思うようになった。書くことを諦めれば、俺は多く眠ることができる。それだけでも、いまの俺にとってそれは、魅力的に感じられる。ブログというよりも、書くことそれ自体から解かれれば、俺は幸せになれるかもしれない。

 何よりも、晩酌ができるようになるというのが大きい。文章を作るにはシラフである必要がある。いや、必ずしもそうでなければならならないというわけではないが、働きながらそれなりの文章量を書き続けるには、悠長に呑んでいられない。したがって、まとまった休みがある時を除いて、俺は文章のために酒を控えている。書かなくなれば、そんな必要もなくなるのだから、仕事の疲れをアルコールで癒やせるようになるのだから、それもまた俺の心を惹く。

 無論、安酒を呑んで心身の健康を損ねたところで、それもまた単なる無駄な行為でしかない。誰にも求められない、何の得にも繋がらない駄文を書き連ねることと、脳や内臓にダメージを与えるだけのアルコールを摂取することは、無駄という点において完全に同義であると言っていい。そしてどちらか一方しか選べないとしたら、俺はそのどちらを取るべきなのだろうか。

 書くことを仕事にしたいといったことは、多くの人間が一生に一度は夢見ることだろう。辛くつまらない労働とは無縁で、好きなことを書いているだけでゆうゆうと暮らせるような暮らしを。それを現実の社会で実践できるいる人間が果たしてどれくらい実在するかは定かではないが、それでも漠然と作家稼業なるものに甘い夢を抱く人間は多いだろうし、俺も子供の頃から、そんな浅ましい望みを捨てきれずに、これまでオメオメと生きてきた人間だ。

 文章で食っていくという荒唐無稽な夢など、所詮は単なる妄想でしかない。それは叶う望みのない夢でしかなく、そんなものが実現することを本気で信じたり想定したりして生きられるほど、俺は有望な人間ではない。積み重ねた一文字一文字が、結局のところ徒労以外の何物でもない。それでも書くというのか、俺は自問する。なぜ、なんのためにそんなことを続けるのか。

 もう金にならなかろうが、実を結ばなかろうが、どうでも良いのかもしれない。俺にとって文字を打つことは安酒を呷ることと、全く何も変わらない。そのどちらを選んだとしても、それは先に触れたように単なる時間の無駄に害の何者でもない。最早それは、どういう手段で無駄にするかという話でしかない。そして余暇というものは本来、純然たる時間の無駄遣いなのであり、それについて何にもならないなどと気を揉むのは無粋きわまりない。