壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

行く手も逃げ場も帰る所も

 自分が今いる場所も、かつて身を置いていたところも、また未来に行き得る何処かでさえも、俺にとってはしっくり来ない。何処を目指そうが何処に帰ろうが、俺は場違いな何かとして見なされ、位置づけられてしまうだろう。いまいるココが嫌だと思い、たとえ地球の裏側にまで逃げたところで、その逃げた先もまた遅かれ早かれ嫌な場所になってしまうだろう。自分なるものを何処に置き、どのように扱うか。そもそも「ソレ」は一体何なのか。

 

度し難い

 此の世のどこにも、自分の居場所がないと物心がついてからずっと思ってきた。何処に身を置いても居心地が悪く、面白くも楽しくも、安らげもしないのだった。産まれてから高校を卒業するまで俺は、同じ街で暮らしてきたがその故地に対して、一切の愛着を感じない。また、18歳からは東京に移り今日まで生活してきたが、東京に対してもまた思い入れが有るわけでもなかった。

 愛国心愛郷心も、愛校心も愛社精神も俺にはなかった。それらのような帰属意識といったものを、俺が持つことは恐らく終生ないだろう。自分がいる場所やいた場所について、特別な感情を持つというのは、俺にとっては途方もない芸当のように思われた。いまここ、という時空間は俺にとって常に呪わしいだけの代物でしかなく、俺はどんな瞬間においても「ここではないどこか」を欲し続けた。

 見も知らぬ、遠い何処かへ帰りたい。そんな訳のわけの分からない望みを俺は、無意識の内に抱きながら、今日まで生きてきたような感が有る。見聞きしたあらゆる場所や集まりが、時分にとっては居心地も都合も悪いのだから、当然と言えば当然なのかもしれないが。現実において属しているあらゆる共同体や物理的な空間の一切が、俺におっては好ましくも、有り難くもなかった。

 故郷は寒く、家は貧しく、人々の心は何となくササクレだっている用に感じられた。何処に居ても、誰と会っていても俺にとっては良い時間ではなかった。田舎から抜け出して都会に移り住めば、その先でも余計な苦労を背負い込み、思い通りにいくことなどただの一つとして有りはしなかった。「今」は俺にとってただ単に忌々しいだけで、振り返れば懐かしむべきことも何もなく、未来もまた暗く思われた。

 家も、学校も、会社も、ひいてはそれよりも大きなあらゆる組織や共同体に対して、俺は属することができなかった、気持ちの上では。両親は常に自分たちの理想だけを俺に投影し、俺はその押し付けられた幻影に則って良い息子を演じることに救急とさせられた。学校や会社では赤の他人の私利私欲や個人的で身勝手な都合のために道具として利用されるだけの、ただそれだけの関係しか築くことができなかった。

 俺には祖国も故郷もない。有るには有るが、それを愛することは到底かなわない。他者や全体のために利用されたり犠牲にされたりすることはあっても、それ以上の、又はそれ以外の関係を俺は、あらゆる他人と築くことができなかった。それ俺自身の能力の問題も有るのだろうが、それについての是非を問うよりも前に、根本的に人間の集まりの中で、一員として位置づけられるための、資質がハナから欠けているように思えてならなかった。

 俺は最底辺の人間であり、そのような人間はどんな集団の中においても、一部ではあっても一員にはなれない。その厳然たる事実は、通常は巧妙に伏せられる。一応、オレのような人間であっても頭数には数えられることもあれば、何かの集まりに参加すれば歓迎されるようなことは、ないではない。しかしそれでも俺は、己という存在が結局のところ他人に道具のように「活用」されているだけだと、どうしても感じてしまい、その結果として冷めてしまう。だからいつ、どんな所に居たとしても俺は、どこかを求めずにはいられないのであった。

根無し草

 他人の欲や都合のために利用される自分自身を、どのように正当化すべきだろうか。俺は目下、とある会社の従業員として労働に従事させられ、それによって得られる賃金によって生活を営んでいる。その会社が俺に毎月支払う給料は、決して十分とは言えない。俺が会社側に提供している労働力、つまり職場に拘束された時間の代償としては、金銭の額が余りにも少なすぎるのだ。この状況は身も蓋もない言い方をするなら、他人に人生を搾取されているということになるが、その現実とどのように向き合うべきか。

 第一俺は、何のために他人が作った会社に束縛されているのか。それは生活を維持するためではあるが、別に必ずしも、その会社の職場がなければならないというわけではない。会社の存亡が俺の生命と密接に関わり、不可分であると言うなら、俺は文句や不服を抱く余地もなく、全てをそれに捧げなければならないが、実際はそうではない。最悪クビになったとしても、それが直に死に繋がるわけではない。

 ハッキリ言ってブラック企業なのだが、それでも前職よりは大分マシだ。前職もまた他人が作った会社の従業員として俺は働いていたのだが、そこは賃金が低いだけではなく、身も心も上司や社長に全て捧げ、滅私奉公することを俺に要求してきた。まるで、会社の命運が俺の生物的な死と直結しているかのように、上役や社長は盛んに唱え、俺に献身を強要してきた。そこまでのことは現職に於いてはない。

 だが、本質は似通っており、その点では職場を変えても問題は全く解決していないと言える。結局、他人が興した会社に良いように使われているという点で見れば、多少の待遇の違いはあっても実質的には何も変わっていない。俺は職場も仕事も大嫌いであり、可能なら今すぐにでも辞めてしまいたい。だが、そんなことは経済的に絶対に許されないから、愚痴を言いながらも使役させられ続けるしかない。

 要は足元を見られているのだ。多少ひどい扱いをしても、毎日のように黙って出勤し、言いなりになって働き続けるのだから。自分で言うのも何だが、そんな人間は低く見られて当然であろう。俺が使う側の人間なら、いくらでも扱き使ってやろうという気になるかもしれない。他人に使役されながら、人間らしい暮らしを私用などと考えるのは、その土台からして間違っている。

 雇われるということは極端なは無し、生殺与奪の一切を他人に委ねることに他ならない。前に働いていた会社で、先輩の社員に仕事終わりに喫茶店で言われたことを思い出す。その男が言うには、お前が働いているこの会社が給料を払えなくなれば、お前は生きていけないのだから、どんなことよりも会社を優先して考え、会社第一に生きろと。そうするのが理屈としても当然のことなのだと。

 そんなことを言われて、俺は極めて理不尽に感じたが、結果としてはその先輩社員が言うような働き方を強いられた。俺は何処の馬の骨とも知れないような人間が作った会社のために、自分の人生の貴重な時間の大半を毟り取られるハメになったのだ。結局その会社は俺が働いていから1年も経たずに潰れてしまったが、もしそこの経営が順調だったら、俺は未だにその会社で働かされていたかもしれないと思うと、ゾッとする。

 

 俺はその会社がなくなって、本当に良かったと思っている。従業員を解雇し、会社を解散すると上役の連中に言われた時、俺は助かったと思った。俺はその会社の一員のようで居て、実際はそうではなかった。俺は気持ちの上ではどこまで、その会社に一方的に虐使されるだけの存在でしかなった。そのことはどんな詭弁によっても否定できるようなものではなく、例の会社がなくなってから俺は、改めて自分が奴隷のように扱われていたのだと気付かされた。

 あるブラック企業から解放されても、無職でいられるのはせいぜい3ヶ月であった。失業保険の受給ができなくなれば、俺はまた働かなければならなくなり、俺が次に働く事になった会社も結局、前の職場とそう大して変わらないような代物出会ったのは皮肉な話である。とある酷いところから抜け出したところで、それで全てが好転するとは行かないのだから、現実とは斯くも厳しい。

 単に仕事の愚痴が書きたいわけではない。どんな場所に身を置いたとしても俺にとっては、それは苦しみや憂いしか生み出さないという話だ。どこで何をしていても、俺には苦痛しかもたらさない。目下、被っていることから逃れたいと欲し、別の場所に移っても、それによって問題が解決したという試しがない。ある場所から逃げ出しても、その逃げ出した先もまた別の厄介なところに過ぎなかった。

 俺は故郷から都会に逃げてきたが、それもまた同じようなものだった。俺にとって地元の町は地球上で最低の場所だと思っていた。だからそこから離れた街に住めば、それだけで人生が薔薇色になると、臆面もなく愚かにも若く幼い頃の俺は思い込んだものだ。結局、縁もゆかりもない土地で生きていかなければならない苦労は、鄙びた場所で暮らすこととは、また違った苦しみが伴うのである。

 一事が万事、そういった具合であるため俺は、どこに行けば良いのか、どこに帰ればいいのか皆目、見当もつかない有り様だ。もちろん現在、居るところにもアイデンティティを見出すことは無論できない。俺がこの身をどこに置けば良いのか、誰に聞いても分かるまい。もちろん俺自身も知るはずがない。行き先も帰り道も分からないまま暗中模索、前後不覚で今日まで生きてきたが、それはこれからも変わらないだろう。

 単に職場の問題ではなく、国や街に対しても俺は、属することができない。いや、名目上は国民なり区民なりという形で所属はしているが、俺が問題にしているのは自身の精神の問題である。良いように使われるだけの扱いでも、それでもいい、仕方がないと自分で自分を納得させられるような芸当が、俺にはどうしてもできない。だから俺はどんな場所にも属することができず、要するに浮いてしまうのだ。

我は無し

 馴染めない自分を俺はいつも持て余して生きてきたが、それは本当に問題なのだろうか。と言うよりも、そういう自分というものが、確固たる存在として在ると無批判にしてしまうことは、本当に妥当なのだろうか。自分が自分として、確たる一個の人間として、実存的に在るなどと、何か根拠があって俺は思っているのだろうか。それが単なる思い込みでしかないとしたら。

 もし確たる己がないとしたら、浮いているという感覚がそもそも単なる気のせいでしかないということになる。その方が、俺にとっては良いのかもしれない。身の処し方に窮してアレヤコレヤと悩んだり苦しんだりするよりも、その身それ自体がある意味、虚妄でしかないとしたら。馴染めず属せもしないということが、問題でさえないとしたら、それは何という救いだろうか。

 自分というものがスタティックに実在するという前提をまず疑うべきだ。その前提が在るから、その静的な己を何処に置けば良いのか、あるいは何処に持っていけば良いのかという問題を抱えることになる。置くべき己、持っていくべき己なるものが、はじめから存在していないとするならば、本稿で取り上げた憂いは根本から雲散霧消してしまうだろう。

 我がないなら、それを置いておくための祖国だの故郷だのといった場所や概念もまた不要となる。確固たる俺が実存的には無いとするなら、その手の問題についてシリアスに考え込むことは甚だバカげているとということになる。帰属できないという苦しみは、その主体となる「我」が疑いようもなく揺るぎなく在るとするからこそ生じる。逆に、我なしとすれば、行く先も帰るところも、また居場所も無用の長物となる。

 居心地が悪く、居たたまれないとしても、それに何が問題だというのか。自分なるものが絶対的に在り、それの処遇が重大な問題であると捉えているからこそその問題は問題たり得る。そして重ねて言うが、それが絶対的に在るとするのは、そうだとする前提があって、はじめて成り立つことであり、その前提を踏まえず、更に言えば唾棄してしまえば、問題だの悩みだのは滅尽してしまう。

 所属だの帰属だのといったことで右往左往するのは、自分という絶対不可侵な主体が実存として在るという迷妄に拠っている。その無明から解かれれば、どれだけ居心地が悪い場所で、理不尽や不条理を被ろうとも、その「被る私」が無いのだから苦しみもまた幻のようなものだという結論に至るだろう。被害者としての自分が、その主体が、心が無いとするなら、どんな苦しみが有り得るというのか。

 自己の究極は不在である。これは一見すれば矛盾しているように思えるが、人間は何をもってして我在りなどと信じられるというのか。我思う故に我在り、などというフレーズは人口に膾炙しているが、そんなものは俺に言わせれば単なる世迷い言だ。思っている自分があるから、我なるものが疑う余地もなく、確たる実存として在るとするのは、単に「そういうことにして」いるからでしかない。

 我在りとしている自分の実存もまた疑わしいとすれば、自分なるものは何処にも、どんな形でも無いとすることは不可能ではない。それもまた「そういうことにして」しまえば、十二分に成り立ち得る。そしてそうした方が、楽で得である場合においては、そうしておいた方がいいだろうし、それをすることに誰かから批判される謂れはない。