壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

言語に絶す

 普段何気なく言葉を用いている。それは他人と接触する時の意思疎通のための道具として使うこともあれば、一人で沈思黙考する時のツールとしてそれを取り扱うこともある。個人としてどのような局面であっても、言葉とは自分自身なるものと常に不可分であると言って良い。しかしその言葉なるもの、血肉となっている第一言語母語言われているものが本当に唯一にして絶対の何かだと言えるのだろうか。

 

第二言語としての日本語

 俺にとって標準的な日本語は母語ではない。俺は津軽地方という所に産まれ落ち、その地で育てられた。大人になるまで彼の地を出ることはなく、身の回りの人間はわずかの例外を除き、その土地の人間であった。言うまでもなく、津軽においてはいわゆる普通の日本語というのは用いられない。学校の授業などでも教師は現地人であるなら基本的に津軽弁で生徒にモノを教える。

 そんな環境下で育った俺にとって、標準の日本語とは第二言語でしかない。俺は後天的に普通の日本語を学習し、身に付けたと言える。日常で喋ったり、学校で習ったりする言葉とテレビなどで見聞きするそれが全く別物であるという事実は、子供だった俺を大変、困惑させた。なぜ自分はこんな変な喋り方をしているのか、しなければならないのか。俺は自らの口から出る言葉を汚いと思った。

 それだけではない、俺は自身の頭の中にも違和感を抱いた。頭の中で何かを思ったり感じたりする時、当たり前だが津軽人は津軽弁を用いる。精神活動もまた方言によるのだが、俺はそれに対して、嫌なものを感じた。その直接的な原因となったのは、盆や正月の親族の集まりにおいて、母方の親戚や両親から浴びせられた悪口雑言の数々であったのだが、それについては割愛する。

 とにかく俺は地元の言葉を忌み嫌うようになり、津軽に在りながらにしてその土地の方言を一切、しゃべらなくなった。口から発する言葉は言うまでもなく、頭の中の思考も可能な限り標準語で行うよう努め、中学生くらいの頃には既に、全く津軽弁を話さなくなり、頭の中で用いる言語もそれではなくなった。その時分にはもう、標準日本語は完全に俺の血肉となったのであった。

 しかし、だからといってその言語が俺にとっての第一言語だとするのは、やはり無理があると言わざるを得まい。所詮は後天的に学んだ言語であるという、この事実はどのようにしても否定しようがなく、またすべきでないだろう。俺にとって「普通の日本語」なるものは、どれだけ自在に使いこなせたところでヨソイキの言葉に過ぎず、それが母語であるというのは無理筋というものだ。

 かと言って、津軽弁で話したり考えたりは最早、残念ながら能わないのであった。地元の言葉を自らの精神から完全に排斥しようと努めた俺は、本来の話し方を忘れ去って久しい。親の前でも俺は標準的な話し方しかできない。本来なら俺はいわゆるズーズー弁で喋り、また考えるべきなのだろうが、そんな能力は失ってしまった。本当の母国語、本当の第一言語を俺は、実のところもっていないと言って良い。

 時おり思う、俺にとって言葉とは一体何なのだろうかと。テレビやラジオなどで見聞きする普通の日本語を完全にトレースして、あたかも生まれながらにそれを習い、身に付けたかのように振る舞っているが、実際はそうではないと己自身が最もよく知っている。そんな俺が日常的に用いているこの言語は、俺の中でどのように位置づけるべきだろうか。俺にとって標準日本語というものは、遠い異国の言語と大した違いはないのかもしれない。俺にとって、「日本語」あるいは国語と言うものは別段、特別な感情を抱きつつ肩入れしたり義理立てしたりしなければならないものではないのかもしれない。

言葉と私

 人間の精神活動は主に言語に由来している。言葉を介さない挙動や情緒といったものは当然あるが、その程度なら人間以外の動物でも備えている。よって、それらは人間が人間であることを決定づけるほどの価値はないと俺は考える。そのため、人間であることに重きを置くならば、やはり精神というものを形作る根本となるのは言葉であると結論づけて差し支えないだろう。

 その言語がどのようなものであるかは、個人にのアイデンティティの根幹に関わる問題であると見なすべきだ。俺の場合、その根幹をなすはずの言語は、言うまでもなく津軽弁であるはずなのだが、先に触れたように俺はそれを失ってしまっている。俺の精神活動は、全く無縁である標準語によって行われている。俺の精神活動は、借り物の他所の土地の言葉を用いて行われている。

 胸中で思いを巡らせる時、この事実が無視できなくなる。重ねて言うが、俺にはそれは本来の母語ではない。そんな言葉によって成り立つ俺の精神は、本当に俺のものであると、言い切れるだろうか、言ってしまって良いのだろうか。ヨソイキの、借り物の言葉でもって成り立つ精神は、やはり飽くまで仮初めの代物にすぎないのではないか。そうだとしたら、俺の精神は一体どこに存するか。

 言葉に依拠することで、人間は人間として在ることができる。複雑な情緒も思想も記憶も、全ては言葉に依るものだ。それが第一言語でない異土の言葉で為されている俺の精神は、実はそもそも不在なのではないだろうか。あたかもの自分の心、自分の魂、自分の意見や思考といったものが、あるように感じられるが、それが錯覚でしか無いとしたならば、俺はどうやって生きていけばいいのだろう。

 母語を忘れた時点で、個人は言語的に死んでいると見なしていい。俺は津軽人として此の世に産まれて落ちたにも関わらず、それであることを忌み厭い、遂にはそれであることを辞めてしまった。それは都会人になるだとか何だとか、そんなコトでは全く無かった。それは己の手で自身を殺すことでしかなかった。生来の自分と呼べるものは、とうの昔に死に絶えて、今の自分は己のようでありながらもそれではないのである。

 精神的な意味合いにおいては、俺は既に死人であった。言語的に、また精神的に、死んでいる者が、一体どうして「人生」などを送れるというのだろうか。人間としての精神の基盤たる、本来の母語を自ら捨てるという愚行に及んだ俺は、言うなれば言語的ゾンビとも言うべき存在でしかない。たとえどのような誤魔化しや詭弁を用いたところで、普通の日本語は俺にとっては所詮、第二言語の域を出ることはない。

 昔読んだ何かの本に載っていた、祖国とは国語であると。そのフレーズは、祖国という言葉を、故郷に置き換えても有効だろう。俺は地元とは単なる土地を指すのだと浅はかに考えていた。しかしそうではなく、故郷とはその土着の言語そのものであり、それは地球上の何処に居ても個人と常に共にあるはずのものだ、本来は。俺はそれを自ら放擲し、最早どこの土地の何者なのか判然としない人間でしかなくなってしまった。

 

 俺は何でもない、少なくとも言語的には。自分が普段使っている言葉や頭の中で考える時に使っている日本語に対して、俺は愛着など一切感じない。自分とは全く何の関係もない土地の言葉を、愚かにも模倣して我がものであるかの如く、見せかけているだけでしかない。そんなものは自分の言葉ではなく、またそれを礎にして成立する精神や心といったモノもまた、我が物足り得ない。

 俺は望みどおりの好ましい人生を送れていないと長年、悩んできた。しかし、その望みだの好みだのといったものは、本当に俺自身のものだといえるだろうか。心それ自体が、所詮は他人が使う言語に依って形作られており、それに基づいて成される願いや望みなどが、どうして他ならぬ俺の願望だと言えるのか。「俺なるもの」は、自身の頭蓋の中にさえ存在しないのではないか。

 心身ともに、己という存在が時に余所余所しく感じられる。借り物の言葉、借り物の精神に基づく自我なるものは、俺ではない。そして本当の俺は何処かに何らかの形であるのではなく、その存在自体が言うなれば、でっち上げの架空のものでしかないのではないかと、思えてならない。俺が浴する快楽も、俺が被る苦しみも、その主体となる俺がどのような形でも実在しないとするなら、両方とも幻のようなものでしかない。

 肉体も精神も、また心も霊魂も俺ではない。此の世に於いて我は無しと、結論づけてしまったら、その段にあっては最早、幸福も不幸も成り立ちはしないだろう。そしてその方が、俺にとっては却って良いのかもしれない。自分なるものがあり、それが苦しんだり辛い目に遭ったりすることを、自明だと思うことは人間にとって本当に良いことだろうか。近ごろ俺は疑問に思う。

 俺は俺の言葉を忘れ、本来の俺ではなくなったが、そのような自己同一性が揺らぐようなことは、他の人間にも十二分に起こりえることかもしれない。いや、個人であること、一個の人間としてのアイデンティティ、即ち心の問題の根幹が実は疑う余地が多分にあるというのは、特定の誰かに限った話ではないだろう。個人はなぜ個人なのか、そしてそれは盤石で揺るがぬものであることは、果たして本当かどうか。

 そもそも、言語とは個人の占有物ではない。精神なるものが言語に依って成されるとするならそれに、独自性などは生まれようがない。そんなものを後生大事に守ろうとするのは、改めて考えてみると滑稽きわまりない。自分あるものを傷つかないように、損なわないようにと躍起になる前に、それがそもそも一体何なのか一度、立ち止まって考えてみるべきだろう、誰しもが。

 標準とされる言葉を身に付け、それによって形成された精神を携えて生きている俺だが、それを指して自分だとするなら、そんなものを愛する理由があろうか。自分とは所詮、既存の言葉から成る有り触れた代物でしかない。そんなものを大切に取り扱う理由が、一体何処にあるというのか。俺にとって俺は、縁遠い他人でしかない。それは言葉で表すと、甚だ奇妙なことではあるが。

考えぬ人

 言葉を用いずに精神を成立させることは、どうしてもできないのだろうか。津軽弁であれ標準語であれ、それらのどちらにも依拠することなく、俺が俺であることは、どうしても無理なのだろうか。結論から言えば、とどのつまりそんなことは有り得ないというしかない。前述した通り、言葉を用いるから人間は人間として精神を保つことができるのであり、言葉なくして人間は成り立ちはしない。

 しかし、考えない時間というのも決して珍しいことではない。無心で居る時間というのは特別でもなければ難しいことでもない。そんな時間において、俺という存在は完全に空っぽになってしまっているのだろうか。言葉を忘れて無為に時間を過ごす時、その時に俺は俺ではないのだろうか。言葉や思考、人間的な精神の活動から離れている間の自分を俺は、どのように見なし、定義すれば良いのだろうか。

 無心で何かをしている時、俺は我を忘れる。その間においては自分なるものが完全に、何処にも存在していないかのように感じられる。そして、そういう時間の方が、あれこれ考えて思い煩っている間よりも、俺には良い状態のように思えてならない。しかしそれなら、言葉を介して精神を抱いている時の俺は、無用なのだろうか。人としてあくせく活動する時間は全て無意味かつ無価値なのだろうか。

 死ぬまで放心していられるのは、至福なのだろうか。考えることも感じることも、一切ない状態の方が好ましいとするならば、これまで散々苦しんだり悩んだりしてきたことは、全くの徒労だということになってしまう。それでいいのだろうか。また逆に、そうであってはならないのだろうか。俺はどちらを選ぶべきなのか。その選ぶという選択をする主体としての俺の存在は?

 少なくとも、どんな言語に拠ってでも考えている限り、人間は仮初めの自我を持っている状態でしか居られない。それが大して重要でも大切でもないということは最早、疑いようがないから、それがどのように取り扱われ、また遇されたとしても、それに対して一喜一憂する必要はないということだけは明らかだろう。自分なるものは世間で言われているほど掛け替えの無い何かではない。

 己というものをどのように定義するとしても、それを珍重するのは正しくない。極端な話、自分などというものは粗末に扱って然るべき事物でしかないのかもしれない。自分の精神というものを重大で掛け替えのない、唯一無二の存在だと思い込み、それをどうにかして損なわないようにしようと決死の思いで生きてきた。そしてそれが達成できなければ、まるで致命傷を受けたかのように重く捉えてきた。

 そういうことの全てが、途轍もない考え違いと言うか、前提からして大間違いであったということに最近、気づくようになった。心だの精神だの、或いは魂といったものを為す要素としての言葉がそもそも俺にとって大事でも重要でも、唯一絶対の何かでなく、またそれによって成される自分自身もまた、取るに足らないモノに過ぎないということは、念頭に置き続けなければならない。