壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

貧乏暇なし

 一思いにブログを爆破してしまえば、今夜はゆっくり眠れるものを。一円にもならないような文章を長い時間を書けて作ることの愚かしさを、最近は特に感じるようになっている。俺にとって書くという作業は易しくもなければ楽しくもなく、しなくて済むなら本音を言えばその方が良いのかもしれない。しかし、書かなくなったとして、それで何がどうなるというのか。

 

実質月曜日

 この記事は日曜日分ということになっているが、実際にこれを書いている時間は、厳密には月曜日となる。書かずに溜めておいた記事の分、文章を作るのに手間取ったせいで、俺の日曜日はそのためだけに費やされてしまった。そして日付が変わってから日曜日にこなすはずだった分に、ようやく取り掛かっているという次第である。たかがブログの更新で、これほどまでに難儀する人間は他にいないに違いない。

 質を問わず、どんな内容でもいいから毎日最低5000文字に達するブログを更新し続けることを俺は自らに課している。そうでなければこんなブログ自体が存在しないだろう。俺は元来ネットにおいては、2ちゃんだのニコニコだのといった、匿名文化圏に属する人種である。そんな俺がハンドルネームに過ぎないとは言え、一定の名前を名乗って自前の場所を設けて文字を綴っているのだから、それ自体が異例と言える。

 毎日最低5000字は書くようにする習慣を、俺は相当無理をしつつ続けているのだが、そんなことをしなければならない理由は、俺が文章について学ぶスクールに目下、通っているからだ。別にその学校において最低ブログでもいいから5000字は書けるようにしろ、などと課題を出されたわけではない。それでも俺はそんな場所に通う以上は、その程度はできなければならないと勝手に一人合点してそんなハードルを設定した。

 誤字脱字だらけの、支離滅裂な代物であったとしても、5000字の文章を毎日コンスタントに量産できれば、それなりだろう。少なくとも俺自身はそのように考え、その自らに課したハードルを超えながら今日まで生きていたが、それもいい加減に辛くなってきた。休みの日ならいざ知らず、仕事などの用事がある日でも例外なく5000字を書くというのは、それが駄文であっても心身に負担が掛かる作業だ。

 母国語の散文など、やろうと思えば誰にでもできると、言う者もいるかもしれない。クオリティを問わずブログ程度の文章なら、いくらでも量産できるが、そんなバカバカしいことを毎日毎日やり続けるのは、単に時間の無駄だから普通の人間はやらないのだと。しかし俺から言わせれば、できるけどやらないというのは即ち、出来ないに等しい。実際、手すさびとしてもそれほどの分量を毎日こなすにはそれなりの努力を要するということは胸を張って言える。

 だからこそ、ブログを更新するだけで俺は手一杯なのだ。体力や精神力が持たず、一日でもサボってしまえば、その分のしわ寄せが次の日に行う作業に加えられる。そして翌日も同じくサボれば、明後日に2日分の作業が、という具合だ。結果的に俺は、木曜日あたりから溜まったブログに載せる文章を日曜日に作ったのだが、肝心の当日分は月曜日に持ち越しとなっている。

 ただ働いて、ブログを書くだけならそれでもいいかもしれないが、残念ながら俺はそれ以外にも読んだり書いたりしなければならない。文章の学校に通っていると先に述べたが、それの課題も溜まっている。また、ブログと学校の課題以外にも、公募だの何だのを見越して、もっとたくさん書かなければならない。そう考えれば、俺にはとにかく時間が足りない。労働に割いている時間など、今の俺には惜しくて惜しくて、惜しくて堪らないのだが、それによって学校に通え、ネットにパソコンがつながり、ブログが書けているのだから、それを全て書くことに割り振る訳にも、当然いかないのだ。

本末転倒

 誰かにブログをやれと言われたわけではない。文章教室に通うくらい、本腰を入れて勉強するなら、日常的に文章を作る習慣を意識的に設けた方がいいという言説をどこかで見聞きしたというだけだ。それがブログである必要はなく、さらに言えばはてなでなければならない理由も一つもない。本来なら、小説やシナリオを書き溜めるべきなのだろうが、それらは今の俺には余りにも荷が重すぎる。

 クリエイティブ・ライティングの前に、そもそも書くということを日常の一部とするべきだ、そう思った。そのために自分なり低いハードルを設定し、それが難なく越えられるようになってから、脚本なりノベルなりを書けばいいと考えた。それは多分間違いではなかったと思う。ブログを作った当初は、一日に最低3000字の文章を、なんでもいいから書くようにしようと心に決めていたが、それさえも始めのうちはままならなかったのだ。

 今の俺が毎日書かなければならない、最低の文字数は5000文字ということになっている。3000字程度の文章なら、それほど苦も無く作れるようになり、その苦も無くが4000字となり、いつの間にかハードルがドンドン高くなり、ふと気づけば現在の有り様だ。ブログを書く習慣を付けて次の段階に、と思いながらもいつの間にかブログを書くことが生活の中心になっている感さえある。

 とある公募に出す文章を書こうと思っているのだが、とても手が回らない。文章教室で出された課題の締切も、来月の上旬なのだが、これもまた然りだ。公募の方はともかく、学校の課題をブログのために未提出で終わらせるとなると、さすがに笑い事では済まされまい。そもそも、その学校に通うことをきっかけにして、毎日ブログを書くなどという習慣を無理やり身に付けたのに、そのために学校でのことが疎かになるなど、あってはならない。

 最早、ブログなんぞを書いているような段階ではないのかもしれない。文章を書く習慣はとっくの昔に身に付いた、ということにしておいて、最早ブログなど爆破してしまい、別のことに時間を割いてもいいんじゃないか、という気になる。無論、それは間違っている。俺としては、文字数以外の制約などは一切ないのだから、何の苦労もなく5000字程度の散文は量産できて当たり前、くらいの見栄は切りたいものだ。

 実際はそれにすら汲々としているのに、創作文を書くなど未だ時期尚早というものだろう。別にそういう決まりがあるわけではなく、そうしろと誰かに教えられたり指図されたりしたわけではない。そうではないが、一度はじめたものをある日突然辞めるとなると、なんだか色々なものに屈したように感じられて癪だ。仕事が忙しいから書くことを諦める、という形になってしまうのだ、たかがブログであっても。

 

 内容の質を問わず、散文をたくさん書くというのは、文章書きにとっては基礎トレーニングのようなものだろう。仮に俺がアスリートだったとしたら、ブログを書くという行為は本命のスポーツをやる前の走り込みなどに相当すると見なせるかもしれない。ブログを書かなくなるということは、例えるとアスリートでありながら基礎トレを怠るに等しい。今までたくさん走ったから、これからはもう走らなくていいと。

 現役を退くならそれもいいだろう。しかし、スポーツを続けるなら限り基礎トレもまた続けなければならない。そこに疑問や反論を挟む余地など一切ないはずだ。俺は一応文章の学校に通っていて、本格的に書くことを学んでいる身の上ということになっているのだから、その点において妥協すべきではないのは自明だ。働いていて時間がないからブログであっても書くことを疎かにする、というのは論外だろう。

 「あしたのジョー」で主人公の矢吹丈は物語の終盤までロードワークを欠かすことはない。ボクサーとしてヒトカドの存在になってからも、ボクシングと直接関係ない走るトレーニングを辞めはしなかった。それと同じように、俺もまた下手くそな散文を書き続けることから逃げるようなことを自らに許してはならない。基礎訓練をしなくて良くなる日が来るとしたらそれは、前述した通りその道から退いた時だけだ。

 俺の最終的なゴールは、一応は文章で食っていくことだ。それはあまりにも青臭い、恥ずかしい願望だから大っぴらにはできず、またすべきでもないのだろうが、この局面においては明かしてもいいだろう。その最終的なゴールを達成するということは即ち、売文という作業でもって金銭を得るのが目標だということになる。一文字あたり何円になるのかは別としても、とにかくそういうことになる。

 書くことが商売として成り立つとしたら、一字一字が商品ということになる。その商品を使って、商売をするのだから、それは少しでも多いに越したことはない。と言うよりも、出し惜しみしてはならないのだ。どんな商売であっても、売り物を出し惜しみしなければならないとしたら、絶対に成功はしないだろう。売文稼業でも同じことが言えるのではないだろうか。

 つまり、書くことが自体に何らかの苦しみや躊躇いが伴うとしたら、その時点で先行きは暗いのだ。仕事が忙しいだの時間が足りないなどと言い、それに関する労を惜しむとしたら、そんな時点で俺は、現状から抜け出すことは能わないだろう。労働と全く関係のないことに時間や労力を割くことは、今の俺には不可欠であり、どんな理由があっても絶対に途中でそれを断念してはならない。

 文章で生きていこうとしている人間にとって、書くことは日常における何気ない所作の一つであるべきだ。歩いたり食事をしたり、または呼吸をしたりすることに苦労が伴わないように、それと同じくらい難なく文章が作れて然るべきだろう。そうならないようであれば、やはり文章の学校などという馬鹿げた所に学費を納めたのは死に金ということになってしまい、結構な大金を溝に捨てた結果になってしまう。

意地でも

 書くことへの抵抗感が、未だに消えないのが歯がゆい。ブログのことを考えると、面倒くさい気持ちが常にある。5000字を超える文章を作るには手間も時間もかかり、クオリティが低いものでもそれなりに苦労を伴う。俺が無職か何かだったら、それらを惜しまずに書くことに専念できるのかもしれないが、そうは問屋が卸さない。働くためには食べなければならず、また眠らなければならない。それらと並行して書くことの難しさを思い知らされている。

 働くことに大半の時間が費やされ、書くのを諦めるなら、即ち敗北である。人生の主導権を労働なるものに握られてしまうか、それ以外の何かに重きを置ける生活を営めるかどうかの瀬戸際に立たされていると言っていいかもしれない。クオリティの高い作品についてはイザ知らず、単に書く事自体に抵抗感があるとしたら、俺は死ぬまで他人に雇われて労働するだけの存在として終わるだろう。

 俺はある会社で被雇用者として労働をしている。それにより僅かばかりの金銭を得、それにより暮らしている。しかし俺は、それに全く満足はしていない。赤の他人に利用されるだけで一生を終えることを潔しとはしていない。十二分に給料と余暇が得られる身分であったなら、俺は文句を言わなかったかもしれない。だが現実は全然、そうではなく賃金は安く拘束時間は長い。

 賃金はともかく、自由な時間が確保できないのは問題だ。もし人生が永遠なら、どれだけ時間を他人の欲得のために毟り取られても構わないだろう。しかし人間が生きられる時間、とりわけ心身の自由が利き、感覚が鋭敏な状態というのは、極めて短い。そんな時間を何の縁もゆかりも、恩も義理も無いような相手のために、割に合わない金のために、仕方がないとしつつ差し出しているのだ。

 俺がその状態から抜け出せる道は、書くこと以外にない。今さら勉強をして大学に入り直すわけには行かず、海外に逃亡する手もない。どうにか文章によって生きられるようになれば、他人に雇われて使役される身分から脱せられるかもしれない。逆に言えばそれ以外で俺が苦しい労働から逃れる可能性は皆無に等しいだろう。書けませんなどと言ってしまえば、その道も閉ざされる。

 15歳で働きに出されてから、俺は労働を忌み嫌ってきた。それを強いる家族や周りの人間を憎んだ。お前は働かなければ生きられないのだと、幾度となく俺に吹き込んだ両親を、俺はどうしても好きになれなかった。労働こそが俺に与えられた義務にして宿命であり、それから遠ざかろうとすることは愚か、それを願うことさえ絶対に許されなかった。俺は自らの身の上を呪った。

 俺にとって、と言うよりも下層階級にとって、働くことと雇われることは殆ど同じである。そしてそれらは加えて、生きること自体を指した。俺はそれが子供の頃から嫌で嫌で、嫌で仕方がなかった。そんな境遇、身の上から無関係な所に行きたいと延々、願ってきたが結局、現在は働かされている。今の暮らしを変えるには、労働以外の何かに活路を見出すしかなく、それが何かは言うまでもない。