壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

アンチ栄養学

 なぜ人間は飯を食わなければならないのか。飢え死にするからだと言ってしまえば、身も蓋もない。しかしそうだとしても、これほどまで食わなければならないのだろうか。世間で言われている「栄養」なるものを食事によって摂取しなければならないという考えは、俺にとっては眉唾である。結局のところ、餓死しない程度に何かを腹に入れてさえいれば十分であり、飯のことで金や時間を掛けるのはバカげている、のかもしれない。

 

まいばすけっと

 毎日の食事は全て、まいばすけっと買うようにしている。一日あたりの食費は、基本的に500円を超えないよう心がけ、その中であらゆる栄養補給を行っているのが、現在の暮らしぶりである。そんな生活に於いては、食べるということに全く楽しみが伴わない。俺にとって飯を食うということは最早、単なる栄養補給と空腹を紛らわす為だけの手段でしかない。

 そしてこれらの内で厄介に感じるのは栄養補給の方だ。世間一般において、人間はキチンと栄養を取るべきだという。人間が活動するために必要な栄養素は数多く有り、その大半は食事によって摂らなければならない。それを実践するにはそれ相応の対価を支払って食い物を手に入れなければならず、その対価としての金銭は、決して少ない金額ではない。これが俺には悩みの種だ。

 四谷・麹町界隈において、最も安いスーパーは前述のまいばすけっとだ。余程のことでもない限り、俺はそこで食料を調達する。そこはイオン系のスーパーであるため、それ以外の店よりは色々なモノが安く買える。しかし、いくら安いと言ってもそれは世の中の標準と比較してという話であり、俺にとって破格の安値というわけではない。要するに俺は、まいばすの商品すらも満足に買えないほど経済的に困窮している。

 菓子一つ買うだけでも、俺には相当な逡巡がある。だいたい俺は、嗜好品として森永のミルクキャラメルを買うのだが、これが例の店においては大体110円ほどだ。俺は一日500円以内で生きなければならないのだから、これは大変な出費ということになる。その日に使える金は最早400円にも満たない。そんな状況で食い物を買い、煮るなり焼くなりして栄養を取らなければならないのだから、碌な物が食えない。

 毎日毎日、粗末な食事しか摂れない。卵だのネギだのといった、いかにも栄養になりそうなものを食って、頭の中で「自分は栄養は足りている」と言い聞かせながら生活しているが、恐らく栄養学的には全く足りていないと思われる。それによって将来にどんな影響があるかは定かではないが、そんな生活の中においては食うことは先に触れたように楽しくも何ともない。

 段々と食うという行為自体が億劫に思えてくる。なぜなら栄養を摂り腹を満たすだけの最低限のモノしか食えず、またどうしても同じようなモノを食うことになり、味なども単調にならざるをえないからだ。腹が減ったり、目が霞んだり、立ちくらみがしたりすることもある。俺にとってこれらは全くもって不都合で理不尽な生理現象のように感じられてならない。

 なぜ腹が減り、栄養が必要なのだろうか。飯を食わなければ死ぬのだと、俺は直接的せよ間接的にせよ、色々な人間から吹き込まれてきた。実際、丸一日でも絶食すれば心身に様々な不調があるのは明らかだから、それは決して嘘ではないのだろう。しかしその事実や現実といったものに、俺は異を唱えたいと言うか、納得がいかない。食わなくても良いようになれば、こんな面倒なことで煩わされることもないのに、という思いが年々強くなっていくのである。

食に費やす時間などが

 食費については言うまでもないが、それ以上に時間が惜しい。自転車を漕いで片道でも数分を要する。そして店舗に着いてから品物を選び、レジに並ぶのだが、これもまた数分を要する。そして同じ道を引き返し帰宅してから食事の準備となる。調理にどれくらいの時間を費やしているか正確に計っていないから分かりかねるが、少なくとも5分や10分では済まないだろう。そして出来上がった飯を食い、コーヒーを飲みながら前述のミルクキャラメルを食い、そうこうしているだけで夜はどんどん更けていく。

 この一連の作業に要する時間は、全部ひっくるめて一体どれくらいになるだろう。もしも俺が、全く飯を食う必要がない特異体質だったなら、これらの作業に要するすべての時間を、別のことに使うことができる。そう思うと、飯のために割いている時間が惜しくて惜しくて堪らなくなってしまう。例のスーパーまで自宅から赴くまでには、外堀通りを渡らなければならないのだが、これもまたそれだけで中々ドウシテ大儀だ。

 飯を食わなければ死ぬのだと、多くの者たちから仕込まれてきた。そして俺自身もまたそう信じてこれまで生きてきた。しかし、それに対して現実味がイマイチ湧かない。全く一切、食わなければ餓死するのだろうが、世に言うところの栄養学なる言説に対して俺は、甚だ疑わしく感じている。人間が頑健な肉体と精神を保つためには、コレコレの栄養素が絶対に不可欠だ、と唱える例のアレだ。

 先に触れたが、俺は一日当たり食費500円未満で生活している。そんな食生活では、とても「十分な栄養」を摂ることは能わない。しかし俺は、心持ち食に対し物足りないという不満を抱くことはあっても、栄養が足りないからドウノコウノということを感じることは稀だ。これも前述したが、余りにも食わなさすぎると目まいなり立ち眩みなどを催すが、極端に食わない場合に限っての話だ。

 世間で言われているほど、人間は飯を食わなくても差し支えないのではないだろうか。一切なにも食わないでいれば当然、餓死は免れないだろうが、そこまでではなく、可能な限り食わないとしても、人間は十二分に活動できるように思えてならない。金がなく、それを正当化するために痩せ我慢で主張しているのではない。俺は本当に、人間にはそれほど多くの栄養も、また食事も不要だと実感している。

 俺の収入はとても低く、それから食費を捻出しなければならない。そのため、食費は削れれば削れるほどいいのだが、栄養という点を度外視して生活できるとしたら、今よりももっと少ない出費で済む。そうなればそれは俺にとって、極めて助かるのは言うまでもない。俺は健康のために1パック200円の卵を買っているが、その分の金が浮くとしたら、我が家の財政は相当、楽になる。

 体調を崩すのではないかという懸念は確かにある。しかし、俺に肉体に限って言えば、栄養を取ったから体の調子が良く、また逆だから悪いなどと単純な法則が導き出せるわけではない。たっぷり栄養を摂ったにもかかわらず、風邪を引くこともあり、また晩飯を食わずに眠ったにもかかわらず別段どうもならないということも幾度となくあった。それらを鑑みれば、栄養の多寡が体調を決定づけるわけではないということは明らかだ。

 

 以前、俺は酒飲みだった。そんな時分において俺は、安酒を呷り、適当に腹を膨らませ、あとはツマミになるものを買って食うという暮らしをしていた。今にして思えば、途轍もない贅沢な毎日を送っていたものだ。一日の食費は少なくとも1500円で、多い日は2000円を超えた。しかもそれは平日においての話で、休日はそれに加えて半蔵門にある行きつけの酒屋で、また別口の買い物をしたものだ。

 そんな生活では、いくら金があっても足りない。実際、そんな暮らしぶりをしていた頃の俺には、貯金が殆どなかった。全くなかったと言いたいところだが流石にそこまで無頼な生活を営むほどの度胸は持ち合わせていないため、そんな風に書けば虚言になってしまう。しかし今に比べれば、蓄えなど吹けば飛ぶほどの額しかなく、ひと月の稼ぎの大半が飲み食いに消えていたのは、紛れもない事実であった。

 休日に飲む酒はエビスビールと決めていたが、平日においては大抵ストロングゼロだった。気軽に安く、大量に飲み手っ取り早く酔うとなると、自然とそれに行き着くというのは酒飲みの多くが首肯するところであろう。毎晩毎晩、働いていない間は殆ど間を空けずに俺は気絶するまで例の安酒を呷り続けた。それは金の浪費であることは言うまでもないが、時間の無駄でもあった。

 自宅に篭り、安物の酒とつまみを口に運ぶだけの日々には、何もなかった。それは時間と金を延々ドブに捨てるだけの、堕落と退廃を除いて、本当に何一つありはしなかった。短絡的な刹那の、粗末で低劣な快楽があるだけだったが、俺はそれに溺れに溺れた。そんな日々に耽溺したのは偏に、飲み食いへの欲求に俺自身が屈したからだということは言うまでもない。

 そんな暮らしで膨大な浪費をしたが金よりも、今の俺には時間の方が惜しく思える。20代の基調で価値ある時間を、そんな毎日を送ることで棒に振ってしまったのだと思うと、気が狂いそうになる。今の俺なら、絶対にそんな余暇の過ごし方などしなかったと断言できる。ほんの数年前の俺が、現在の自分と比べると全く縁もゆかりもない、タダの他人のように感じられる。救いようがない屑に。

 無論、今も時間や金に余裕があれば飲酒はするが、それもまた無駄なことに思える。どうしても欲求に負けて、酒屋に走ることはしょっちゅうある。今週も3連休があり、俺はそれをシラフで乗り切れる自信が全くない。恐らく飲んでしまうだろう、ナカビの土曜日あたりには。しかし俺はここ最近、ずっと酒を飲まずに色々と頑張ってきたのだから、ほんの少しくらいなら晩酌くらい許されて然るべきではないか。

 飲み食いへのあらゆる欲が、完全に滅却できたら、どれほど俺は楽になるだろう。飲みたい食いたいと思っていても、胸中の内奥において俺は、本当にそう願っているのだ。エビスビールを酒屋で買ってきて、自宅に置いてある冷蔵庫のパーシャル室に冷やし、体調を万全にして鼻の通りを良くしてから、それを飲み下すは無上の喜びではある。しかし、それと完全に無縁になれるなら、俺は進んでそうしたいのだ。

出来る限りは不食のすすめ

 連休に呑むかどうかは取り敢えず保留にするとしても、とにかく栄養に対しても空腹に対しても、もっとストイックに臨みたい。とにかく、人間が食ったり飲んだりしなければならないモノは、世間で言われているよりもずっと少ないことは、俺にとっては明白だ。だから、これからはもっと生活における食の比重をもっと減らしていくようにしたい。そうすれば、毎月貯められる金も増えるだろうし、自由に使える時間も増える。

 栄養がないと死ぬ、というのは恐らく迷信だろう。人間は飢え死にする生き物ではあるが、だからと言って通説の通りに栄養を摂るために大枚をはたくのも間違って居るように感じられる。いわゆる正しい食生活というものを実践すれば、食費などいくらあっても足りない。そんなものは所詮、金持ちだけの道楽であって、俺のようなワーキングプアには本来、縁のないライフスタイルだ。

 大体、栄養学的に間違った食生活をしている何処かの未開の部族などでも、民族まるごと栄養失調になっているなどという話は、終ぞ聞いたことがない。アフリカかどこかに、芋しか食わない部族がいるらしいが、その者たちは栄養学の常識で言えば病気にかかるか体の不調を常に訴えていなければならないはずだ。しかし、その手の人種は健康を損なうどころか、いわゆる文明人よりも数倍頑健だという話も聞いた。それが本当だすると、「栄養を摂る」という行為は全くもって馬鹿らしい。

 最低限、飢え死にせず目が霞んだり立ち眩みがしたりしない程度に食っていれば、それだけで人間の心身には十分なのだ、ということにしておきたい。そうでないなら、俺は間違った生活をしていることになってしまい、結局は現在の飯の食い方を改めなければならないということになってしまう。そしてその先にあるのは、以前のような浪費なのかもしれない。

 食わなくていいという前提があれば、飲み食いの欲から遠ざかることができる。たとえ単なる嗜好品であっても、それを買ってしまう背景にあるのは、「人間は食わなければならない」というある種の強迫観念なのではないだろうか。酒浸りの生活から俺が抜け出せたが、それは医者や薬の力などに依るものではない。むしろ、その前提が俺の中で揺らいだからだと考えられる。

 自分は酒を飲まなくても、余計にモノを食わなくても別段、生きていくのに差し支えない。そう確信した時にに俺は、ある種の解放感を覚えた。延々、それらの強迫観念に駆られ、学生時代から20代の大半の時間と、膨大な額の金を俺は費やしてきた。それらが実のところ全く無駄であり、「ねばならぬ」が単なる思い込みだと知った時、俺にもたらされたのは単なる節約だけではなかった。

 酩酊に耽る時間や、食事に要するあらゆる手間を、別の何かを行う次官に避けるようになったのは、俺にとってとてつもなく大きかった。そしてそれが無かった時期の自分の人生が、根底から間違っていたと気付かされもした。人間は栄養を取らなければならないという迷信から解かれて、俺の人生は大分好転した。